孤高の人 第一章 山麓 [#地から2字上げ]新田次郎   目次  孤高の人   第一章 山麓   第二章 展望   第三章 風雪   第四章 山頂  解説(尾崎秀樹)     孤高の人  雪がちらついているのに意外なほど遠くがよく見えた。厚い雪雲の下面と神戸市との間の空気層の|間《かん》|隙《げき》の先に淡路島が見えた。雪雲の底の平面は、鉛色をした海と平行したまま遠のいて行って、水平線との間に、くっきりと一条、青空を残して終っていた。そこには春のような輝きがあった。  神戸市の背後の|山稜《さんりょう》を|覆《おお》った雪雲の暗さから想像すると、間もなくはげしい風を伴った、|嵐《あらし》にでもなりそうな光景であった。神戸としては珍しいことである。  若者は、その雲の底を生れて初めて見る怪奇な現象であるかのように見詰めていたが、首が痛くなると、|眼《め》を足もとの神戸市街とそのつづきの海にやった。神戸に生れて、神戸に育っていながら、このたった、三二〇メートルの高取山の頂上に、こんなすばらしい景観が展開されることをこの瞬間に発見したような気がした。  若者は、そういう気持になるのは、たぶん、頭上にある雪雲のせいだと思った。いまにも降り出しそうな顔をしていて、いっこうに降りそうもなく、時折申しわけのように雪華を落して来る頭上の雪雲の存在からして奇異に感じられ、その雪雲の下にある空間が冷酷なほど|豁《かつ》|然《ぜん》とした|拡《ひろ》がりを持っているのは、その次に、起るべき大きな自然現象の変異を予告しているように思われた。  若者は、突然神戸は大雪に見舞われるかもしれないと思った。ありそうにもないことが、そのときばかりは、ありそうに思われてならなかった。  鈴の音がした。  若者が立っている高取山の頂上のすぐ下に高取神社がある。鈴が鳴ったのは|参《さん》|詣《けい》|人《にん》があったことになる。 「この寒いのに、ものずきもいるものだ」  若者は、そのものずきの中に自分自身を含めて|嗤《わら》った。間もなく老人が、ひっそりと足を延ばすような歩き方で山の頂に現われた。老人はひっそりと来て、ひっそりと眼を海の方に投げた。老人の呼吸には乱れがなく、まるで平地を歩いて来て、たまたまそこに立止ったような姿であった。老人はかなり時代がかった鳥打帽をかぶり、|運《うん》|動《どう》|靴《ぐつ》を履き、左手に|防風衣《ウインドヤッケ》を持っていた。今日はじめてこの山へ来たのでないことは明らかであった。  若者は、その老人はたぶん毎日登山のメンバーの一人ではないかと思った。神戸には多くの山があった。低い山は|鉢《はち》|伏《ぶせ》|山《やま》の二四六メートルから高い山は六甲山の九三二メートルにいたるまで、十数峰が並んでいた。その多くは神戸の市内から一時間ないし二時間で往復できるところにあった。毎日一回その山のどれかに登るという習慣的登山は古くから神戸市民の間に行われていた。毎日登山一万回完成記念の碑が、再度山や高取山に建てられていた。  若者は老人に話しかけて見たかった。毎日登山がどんなものか聞いて見て、もしやれそうなら、しばらくつづけて見てもよいと思った。若者は話しかけのきっかけを探した。雪の降り方がやや増した。 「大雪になるでしょうか」  若者は老人に話しかけた。 「大雪?」  老人は空を見た。 「多分降らないでしょうね、やがて雪雲は切れて、きらきら輝く冬景色になる」 「分るのですか、それが、なぜでしょう」 「理由はない。加藤文太郎の命日は毎年天気がよかった。だから今年もそうでなければならない」 「加藤文太郎というと?」  若者はやや首をかしげて聞いた。 「不世出の登山家だ。日本の登山家を山にたとえたとすれば富士山に相当するのが加藤文太郎だと思えばいい」  老人の声は意外なほど若かった。 「さしつかえがなかったら、その人のことを話して下さいませんか、……ここは寒いから、どうです、すぐ下の茶屋で……」 「いや寒くはない。それに風もない。加藤文太郎のことを話すには、|此《こ》|処《こ》がもっともふさわしいところだ、此処は加藤文太郎が最も愛していた場所のひとつなんだ」 「不世出の登山家だとおっしゃいましたね」 「そうだ。加藤は生れながらの登山家であった。彼は日本海に面した|美《み》|方《かた》郡浜坂町に生れ、十五歳のときこの神戸に来て、昭和十一年の正月、三十一歳で死ぬまで、この神戸にいた。彼はすばらしく足の速い男だった。彼は二十歳のとき、六時に|和田岬《わだみさき》の寮を出て塩屋から山に入り、横尾山、高取山、菊水山、再度山、|摩《ま》|耶《や》|山《さん》、六甲山、石の宝殿、大平山、岩原山、岩倉山、|宝塚《たからづか》とおよそ五十キロメートルの縦走路を踏破し、その夜の十一時に和田岬まで歩いて帰った。全行程およそ百キロメートルを十七時間かけて歩き通したのだ」 「考えられませんね」 「|誰《だれ》もはじめは信用しなかった。そのころ彼はもう、けたはずれの登山家になっていたのだな」 「足が速すぎて、他の追従を許さないという意味でしょうか」 「それもある。だが人間的にも、彼は他の追従を許さぬほど立派な男であった。彼は孤独を愛した。山においても、彼の仕事においても、彼は独力で道を切り開いていった。仕事に対するときと同じ情熱を山にもそそいだ。昭和の初期における封建的登山界に、社会人登山家の道を開拓したのは彼であった。彼はその短い|生涯《しょうがい》において、他の登山家が一生かかってもできない記録をつぎつぎと樹立した。その多くは冬山であった。サラリーマンとしての限られた休日を利用してそれをやったのだ。一月の厳冬期に、富山県から長野県への北アルプス縦走を単独で試みて成功したのも彼が最初であった。食糧も装備もすべて彼独特の創意によるものが多かった。彼は疲れると|熊《くま》のように|雪《せつ》|洞《どう》にもぐって眠り、嵐が|止《や》むと、また歩いた。不死身の加藤文太郎、単独行の加藤文太郎と言われるようになったころ、彼はもう山から離れられないものになっていた」 「その不死身の彼は実際は不死身ではなかったのですね」 「いや、不死身であった。彼は山で死ぬような男ではなかった。彼はきわめて用心深く、合理的な行動をする男であった。いかなる場合でも、脱出路を計算した上で山に入っていた。その彼がなぜ死んだか——それは、そのとき彼が単独行の加藤文太郎ではなかったからだ、山においては自分しか信用できないと考えていた彼が、たった一度、友人と一緒にパーティーを組んだ。そして彼は、その友人と共に吹雪の|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》に消えたのだ」  老人は眼を空に投げた。老人が予言したように張りつめていた雪雲に穴が明いて、そこから光の束が神戸市街を照らしていた。 「見えるでしょうあの和田岬のあたりの日の当っているところ……加藤文太郎はあの造船所に技師として勤めていたのです」  光の束は、若者が、そこを見詰めているかぎりは、そこから動こうとはしなかった。そればかりか、その光の束は時間とともに、その太さを増していって、若者が|頬《ほお》に風を感ずるようになったときには、神戸市の半分は、さっき老人が言ったように、きらきらと輝く冬の|日《ひ》|射《ざ》しの中にあった。 「加藤文太郎という人は、なぜそれほど山を愛したのです。ただ山があるから山へ行ったのではないのでしょう。彼を山に|惹《ひ》きつけたものはいったいなんなのです。それを話していただけませんか」  若者は、そう言って、老人の方を見た。老人はそこにはいなかった。老人はひっそりと、誰にも気づかれないように、しかも、きわめてしっかりした足取りで高取山の頂からおりていくところであった。     第一章 山麓      1  そこから道は二つに分れていた。  左へ入れば、丘の中腹にある寺の前を通って|須《す》|磨《ま》の方へおりていける。右の道は山の方へどこまでも延びている。寺の方へ行く道の方が広く、そっちへ家族づれが二組ほど歩いていった。常緑樹のしげみの陰から桜の花が見えた。花見にはやや遅い時刻だから、花見ではなくこの辺を散歩しているのであろう。寺の方からこっちへ向って走って来る子供たちの一群が通り過ぎると急に静かになった。  寺の鐘が鳴った。  加藤文太郎は寺の方へ|眼《め》をやった。なかなかいい音のする鐘だなと思った。桜が咲いているし、それに鐘が鳴れば、それだけで春の気分は満点だなと思った。彼は耳を澄ませて、寺の鐘の音をもっとよく聞こうとした。鐘は鳴らなかった。一度鳴っただけで、いくら待っても二度目の音は聞えなかった。おそらく子供がいたずらでもしたのだろう、いたずらでもいいがもう一度寺の鐘が鳴ったら、寺の方へ行く坂道を登っていくのだがと加藤文太郎は、そういう期待の眼を|以《もっ》て寺の方を見ていた。鐘はとうとう鳴らなかった。  彼はひどくがっかりしたような顔をした。寺へ行こうというのに、寺の方から来てくれるなとことわられたような気がした。鐘で誘いをかけておきながら眼の前で山門を閉ざされたような気持だった。  加藤文太郎は道を右側にきめた。それからはもう、寺の方を見ずに、真直ぐにその坂道を登っていった。彼は|下《げ》|駄《た》を履いていた。|坊主頭《ぼうずあたま》で、ナッパ服、腰につりさげた|手拭《てぬぐい》が、きちんと細長く畳んであった。彼は十六歳にしては、|小《こ》|柄《がら》の方だったが、足は速かった。カーキ色のナッパ服を着た彼の姿は、|笹《ささ》やぶの中へ吸いこまれていった。  よく踏みこんだ道だった。ひとりがやっと通れるか通れないかくらいの細い道だったが、長い年月にわたって踏みこまれた道である証拠に、道はさながら笹やぶの中の|溝《みぞ》のように、|山《やま》|肌《はだ》深くきざみこまれていた。赤土の道だった。|花《か》|崗《こう》|岩《がん》の|腐蝕《ふしょく》|土《ど》の道だからほんとうの意味の赤土ではなく、いわば赤ざれ砂道とでもいったふうな感じの道だったが、外見的にはやはり赤土の道で、笹やぶから、やや、ガレ気味のところに出ると、そこには、雨あがりのあとに歩いてつけた足跡がはっきり残っていた。  下駄の足跡はなかった。そこはもう、神戸の市街からかなり離れているし、下駄で遊びに来るところではなさそうなところだったが、加藤文太郎は別に、そのことは気にするふうもなく、傾斜の急な小道をさっさと登っていった。  笹やぶの小道が雑木林になると、道はなおいっそう細って来たし、道に木の根っ子が出ていて、下駄ばきの彼の歩行の邪魔をした。  彼はヨモギのにおいを|嗅《か》いだ。|懐《なつ》かしい春のにおいだった。春のにおいというよりも、母のにおいだった。春になって雪がとけ、ヨモギが芽を出すのを待って、彼は野山にでかけヨモギを探した。彼の母は彼が取って来たヨモギを両手で|捧《ささ》げるようにして、春が来たのだねといった。その母に彼は|草《くさ》|餅《もち》を作ってくれとせがんだものだ。末っ子の文太郎は甘ったれで、母もまた彼のいうことならなんでも聞いた。  その母はもういない。  加藤文太郎はヨモギのにおいから逃れるように足をはやめた。顔に風を感ずるのは、高いところまで来ている証拠だった。そのへんで踏みとどまって、神戸市街を見おろしたら、さぞかしいい景色だろうと思った。ふりかえって、見おろしたい誘惑はたえずあったが、彼は立止らなかった。|呼《い》|吸《き》の切れるような傾斜でもないし、疲労するほど歩いてもいなかった。頂上はすぐそこなのに、わざわざ、こんなところで休む必要はなかった。それに、そんなところで休んでいると、さっき見捨てて来た寺の鐘がまた鳴るかも知れない。鐘が鳴ると、桜の花が咲いているお寺へこのままおりていくようになるかも知れない。それが加藤文太郎にはいやだった。お寺の方へはいかないときめた以上、お寺へは行きたくなかった。あのお寺がなんという名前なのか、|由《ゆい》|緒《しょ》があるのかないのか、そんなことはもうどうでもよかった。彼はなるべく早く、お寺との距離をつけたかった。  雑木林はクヌギが主だった。葉芽は青みがかり、そう遠くないうちに葉を開くばっかりになっていた。雑木林の中に混ってトゲの生えたタラの木があった。タラの芽は父の好物だった。タラとはいわず、鬼の金棒と呼んでいたその|潅《かん》|木《ぼく》の芽を、|味《み》|噌《そ》であえて酒の|肴《さかな》にする父を思い出しながら、彼は坂道を登っていった。  道はやがて、二度ほどS字型に曲ってからきつい登りになり、尾根道と直角に交わって終りをつげた。それから先は、その尾根道を左右、いずれかに進むか、もと来た道へ引返すか、三つのうち一つを選ばなければならない。  尾根道には松の木が生えていた。  加藤文太郎はそこまで来て、はじめて周囲を|見《み》|廻《まわ》したが、松と雑木林が視界の邪魔をして、展望がきかなかった。彼は尾根道に沿って右手の更に高い方へ向って登っていった。落葉が積ったままの道だった。踏めばさくさく秋の音がそのまま残されているような道だったが、道はけっしていいとこばかりではなかった。下駄の歯が松の根にはさまったり、落葉の下に石ころがあったり、歩きにくい道だった。  日が暮れかかっていた。日の暮れないうちになんとか見晴らしの効くところまでいって海を見たいというのが彼の最終目的となっていた。海を見たいと思い出したら、いても立ってもおられないほど海を見たくなる。広い広い果てしなく遠くまで見える海が見えるまではうしろも見まい、わき目もしまいときめて懸命に道をいそいだ。  雑木林の尾根道は延々と続いていたが、なにかの間違いのように尾根の一部の樹木が切れて、見とおしがきいた。  彼は眼下に暮れていく海を見た。青い海の色はなく、青色よりも灰色に近い淡い色だった。海と空との区切りがなく一面に暮色として塗りつぶされ、そのまま夜となっていく昼と夜の境の色だった。海岸と海との境界ははっきりしないのに淡路島だけは、別個の存在のように浮いていた。海の中に浮いているといった感じはなく、海でも、空でもなく、そこにそうして、じっと|坐《すわ》っているといったような安定した|眺《なが》めだった。  加藤文太郎は暮れていく海を見ながら、その暮れていき方が故郷の浜坂の町の近くの城山に登って眺めた時の感じと、ひどく違っているものを感じた。浜坂の町の背後の|宇《う》|都《づ》|野《の》神社の丘に立って海を眺めた感じとも違っていた。海と空の境があいまいになり、やがて、夜のとばりにつつまれていく暮れ方は、故郷とここでは同じであるべきなのに、違って見えるのは、日本海と太平洋という、海そのものの違いから来るものであろうか。彼はそんなことを考えながら、眼を海から背後の山の方へやった。  山ばかりだった。大きな山はないけれど、見えるかぎりの山の起伏は果てしなく北に向って続いていた。|山《やま》|襞《ひだ》の間に道が見えた。その道を眼で追っていくと山の中腹に人家があった。一軒家を中心に桃の畑があった。山の中にピンクのインクを一滴こぼしたように美しくもあり、|淋《さび》しい光景でもあった。桃畑に通ずる道は尾根に向って延び、更に山を越え谷におりていった。その谷の深さは、彼のいるところからは見えなかった。|夕《ゆう》|陽《ひ》が西の山にかくれようとしていた。この日の最後の陽光が、峰々のいただきに向って放射され、山々のいただきにかかっている|夕《ゆう》|靄《もや》が、残光を乱反射して、山容を意外にはっきり浮び出させていた。  |喧《けん》|噪《そう》をきわめる神戸の繁華街から歩いて二時間も登ると、そこはもう人の住むところではないということが加藤文太郎には不思議に思えてならなかった。神戸という都市も、海と山とに|挾《はさ》まれたごくせまい面積でしかなかった。巨大な都市だと感じていたのは明らかに彼の錯覚であった。  彼は故郷にいたころ、よく裏山に登った。はてしない日本海の向うが見たかったからである。しかし、山に登っても海は、山に登らずに見た海と同じであり、それよりも、彼を驚かせたことは、海よりもはるかに変化に富み、そしてどこまでも続く山が背後にあったことである。  彼が故郷の山に向って感じたことと同じことがここにもあった。ここで、景観を圧倒的に支配するものは山だった。 (この山のずっと向うに故郷の浜坂がある)  彼は故郷のありかを眼で追った。神戸も浜坂も同じ兵庫県であるが、神戸は太平洋岸に面しており、浜坂は日本海に面している。その二つの町の間は山によってへだてられている。それは当り前のことであり、地図を見てもわかるし、見ないでも常識的にわかることなのだが、加藤文太郎は、眼で確かめたその発見にひどく感動した。神戸と故郷の浜坂とをさえぎっている山の存在が彼にはひどく神秘的にさえ思えたのである。 (北へ北へと歩いていけば日本海へ出るのだ)  彼は心の中でそうつぶやいてから、すぐその地理学的判断が、彼がそれまで抱いていた暮れゆく海の色に対する疑問を解くものであることを知った。 「なあんだ、北と南の違いじゃあないか」  加藤文太郎は海の方に向き直って大きな声でいった。故郷で見る海は常に北にあった。神戸で見る海は常に南に位置する。海と同時に、山の位置も正反対になり、従って海を前にしての日没の方向も故郷と神戸では違ってくる。  夜はもうそこまで来ていた。神戸市街の背後が山であるから、ひとたび日が山にかくれると、神戸は山の影に入る。  おそらく神戸市街から見ると背後の山の|稜線《りょうせん》は金色に輝いているだろうと彼は思った。ふりかえると、山々の峰には|未《いま》だに残光が走っているのに、足下の神戸の海と市街は、|夕《ゆう》|闇《やみ》の中に吸いこまれ、灯台の|灯《ひ》は点ぜられ、海上を走る船のマストの灯さえ見え出して来たことは、なにか奇妙なことのように思われてならなかった。  彼はゆっくり立上って背伸びをし、深呼吸をした。|汐《しお》のにおいがした。風に運ばれて来た、あるかなしかの汐のにおいだったが、そのにおいにはっとしたように彼は足元を見たのである。道はもう見えなかったが、道のあることは確かだった。引きかえす道もあるし、尾根沿いに歩いていけば、どこかに出られるに違いない。  彼は未知の方向へ歩き出した。あかりを持っていないし、この夜が月夜かどうかも知らなかった。月がなくとも星はある。彼は心の中でそういった。道はひどく悪く、道か道でないかの区別がつきがたいところがあったが、いまさら引きかえすこともできなかった。つまずいて下駄の鼻緒が切れた。彼は下駄を両手に持ってはだしで夜道を歩いていった。  心細いとも思わなかった。怖くもなかった。ただ帰寮の時間に遅れることが心配だった。加藤文太郎は故郷の高等小学校を卒業して、|和田岬《わだみさき》の神港造船所の技術研修生として入社してからやっと一年たったばかりだった。夕食は七時まで、帰寮は九時までと決められていた。たとえ日曜であっても例外は認められなかった。今までに帰寮時間におくれた者はいないから、遅れた者がどういう制裁を受けるかは知らなかったが、おそらく、そんなことをすれば、寮長にひどく|叱《しっ》|責《せき》されるかも知れないし、研修班長から、故郷の父親へ通知がいくかも知れない。ほかのことはどうでもいいが父に知らされることは耐えがたいことだった。  道は下りにかかっていた。木のしげみの間から灯が見え、その灯が近くなって来ることは、その尾根道が結局は神戸市街へ通ずるものと思われた。だがそれは、彼の錯覚であって、やがて道は左へ左へと|迂《う》|回《かい》し始め、市街の灯は遠くなる一方だった。  彼はあせった。このままこの道を歩いていれば、それこそ、彼の故郷の山の方へ行ってしまうかも知れない。  彼は道をはずして、市街の灯に向って森の中をおりていった。それからは夢中だった。野ばらで足や腕をひっかかれ、ナッパ服をかぎざきにし、足の裏にとげを刺し、腰の手拭さえもいつの間にかやぶに奪われていた。  森から突然明るいところへ出たと思ったら、そこが赤土のガレ場だった。彼はそのへりを、うしろ向きになって|這《は》いずっておりた。そこから市街地につづく小道があった。  彼は橋を渡った。両手に下駄を持って歩いている加藤文太郎の異様な姿を、町の人は不思議な眼で見送っていた。 「加藤君じゃあないか」  その声には聞き覚えがあったが、相手の顔は暗くてよくわからなかった。会社の人であることは間違いなかったが、和服姿で、街灯を背にしていると、背ばかり高く見えて、全然会ったことのない人のようにも見えた。 「やはり加藤君だね、今ごろどうしたのだ」  相手は近よって来て、加藤の顔を|覗《のぞ》きこむように見た。技師の外山三郎だった。会社ではいつもきちんとして背広服でいる外山が、和服姿でいると別人に見えた。外山三郎は端麗な|容《よう》|貌《ぼう》をしていた。貴族的な風貌といったほうが当っているかも知れない。どちらかといえば、殺風景な身なりをした神港造船所の技師たちの中では断然光って見えた。外山三郎は一週に二回研修生に機械工学を教えていた。研修生たちは、外山三郎の整い過ぎた容姿から受ける感じでこういう男にあり勝ちな冷酷な反面を警戒していたが、外山は他の技師たちとは比較にならないほど研修生たちに親切であった。  外山三郎は黙っている加藤にもう一度どうしたのだねとやさしいことばで尋ねた。面と向って話していると、人がへんに思うから、外山は加藤と並んで歩きながら同じことをまた|訊《き》いた。 「寮へ帰るところです」  加藤文太郎は両手に持った下駄のやり場に困ったのか、二つ重ねて片方の手に持ちかえたり、うしろにかくしたりしていたが、結局もとのとおりに両手に片方ずつ持つと、 「下駄の緒が切れたんです」  と照れかくしのようにいった。 「山へ行って来たのだね、そして道に迷った……ねそうだろう」  外山三郎は加藤文太郎を改めて見直した。この少年にどんなことがあったとしても、それを見落すまいという眼だった。 「加藤君、足から血が出ているよ、それにそんな姿じゃあ寮へは行けない。とにかくぼくの家まで一緒に行こう」 「帰寮の時間があるんです」  加藤文太郎は口をとがらせていった。 「九時だろう。まだ一時間はある。大丈夫だ。な、ぼくの家まで行こう、すぐそこなんだ」  外山は加藤の肩に手を置いていった。外山の手の重みが加藤の肩にかかったとき加藤は、はっきりとそれをふり切っていった。 「いいんです」  そして、外山がなにかいおうとする前に加藤は身をひるがえして|駈《か》け出していた。  下駄を両手に持って加藤文太郎は懸命に和田岬の寮に向って走った。乗物に乗った方が早くつくことはわかっているし、金も持っていたが彼は走った。走らずにはいられない気持だった。加藤は外山三郎がきらいではない。機械工学の教え方もていねいだし、試験の時だって、そう悪い点はつけない。研修生の|誰《だれ》にも好かれていた。好きな外山三郎の手が肩にかけられたから加藤は逃げだしたまでのことだった。外山三郎がやさしい手を彼の肩にかけず、 (加藤、きさま、今時分どこを|放《ほっ》つき|廻《まわ》っていたんだ。こっちへ来い)  そういって、彼の手を取ってぐいぐい引張っていくのだったら、外山三郎の家まで行っていたに違いないと思った。  走ると足の裏がいたかった。少なくとも二カ所にとげがささっている感じだった。  神港造船所の技術研修所の寮は整然としていた。各寮にはそれぞれ入社年度の違った研修生が一年生から五年生まで別々に住んでいた。毎年、二十人から三十人の寮生が春になればこの寮に入って来る。高等小学校を卒業して、ほぼ、十倍近い競争試験を通って来る優秀な少年たちばかりだった。貧しい家庭の少年たちというよりも、農、漁村のしっかりした家庭の子弟を集めるというのが会社の方針だったせいか、集まって来る少年たちの性格は明るかった。大正末期の|頃《ころ》は中学校へ進学する者は非常にまれであった。当時は小学校のひとクラス五十人中から、中学校へ進学するものは二、三名、高等小学校へ進学するものが、十五、六名、あとの三十人あまりは小学校六年をすませると、それぞれ職業についたものである。当時高等小学校を卒業した者は、家も中流以上であり、頭脳もすぐれていたということになる。  神港造船所が高等小学校卒業生を選抜試験でふるいにかけて集め、更に五カ年間の教育をほどこして、技術者を作り出すというのは当時としては進歩的な考え方であり、その後この方法を|真《ま》|似《ね》る会社が現われたが、成果はそれほど上らなかった。  研修所は職場の続きだった。学校でありながら、学校でなく、実質的には工場でもあった。ある時は実務をやり、ある時は教室に坐った。実務と学務とが有機的に密着すれば、この研修は成功し、いささかでも、この二つの実行過程に|溝《みぞ》ができれば、あぶはち取らずの結果に終った。  加藤文太郎は二十名の同級生と共に研修生になり、二年生となっていた。入った時、二十一名だったが、一年の間に三名が脱落した。一名は家恋しさのあまり、離脱し、二名は病気になって会社をやめた。加藤文太郎は二寮五号室に同級生とふたりで起居を共にしていた。同級生だけを一室に住まわせて、そこに上級生や下級生を入れないのは、寮を兵営のようにさせたくないという会社側の配慮だった。  研修生の寮は年度によって別れていたが、食堂は一緒だった。食堂の隣にピンポン室があった。ピンポン台が三台、二台は窓側にあって、台も取りかえたばかりだったが、廊下側に置かれてあるピンポン台はあり合せのテーブルを二つ組み合せたものだった。それに場所が場所だからひどく光線の具合が悪かった。そのピンポン台には下級生が集まり、上級生は窓側のピンポン台を使っていた。  加藤文太郎をピンポンに誘い入れたのは同室の木村敏夫だった。木村はいやがる加藤に無理矢理にバットを持たせた。 「ただ受け止めればいいんだ。来た球をはじき返せばいいんだ」  木村敏夫は、ピンポンの仕方をそのように加藤に教えた。 「ほんとうにただはじきかえせばいいのか」  加藤は木村敏夫のいうことを忠実に守った。 「そうだ、球が来たら、そこへバットを出せば、球の方でぶっつかって、相手の方へはねかえっていく。自分で打とうとすれば球は出てしまう、打とうとしちゃあいけない、受け止めさえすればいいのだ」  木村はそういって、加藤にバットの持ち方を教えた。  加藤はバットを持って突立っていた。大きく足を開いたままで、ほとんど動かさずに、右手のバットだけが、球の来る方向にしきりに動いていた。  球は加藤のバットに当って調子よくはねかえった。相手がロングで打って来ても、ショートで打って来ても、加藤は同じようにバットを動かすだけだった。ほとんど義務的に球に対して追従しているに過ぎなかったその加藤が試合になると案外強かった。同級生ばかりでなく、上級生に対しても強かった。  加藤文太郎が両手に|下《げ》|駄《た》を持って山からおりて来た翌日の午後外山三郎は教室で加藤を見かけた。いつもと少しも変らない加藤だった。すりむいていた手にはヨードチンキが塗ってあった。外山三郎は授業が終ったら加藤にどこの山をどう歩いて迷ったのか聞こうと思っていた。話を聞いてやると同時に、この付近の山々についての知識を与えてやりたいと思っていた。外山三郎は大学時代に山岳部にいた。大学山岳部が出掛けていく山と六甲山付近の山とは比較にならないが、山ということにおいては通ずるものがある。山岳部とまではいかないでもいいから、山を愛する者たちの集まりを会社の中に作ろうと考えていた。加藤文太郎はいつも怒ったような顔をして外山の講義を聞いていた。加藤にかぎらず多くの少年は真剣になったときこういう顔をした。しかし、|彼《かれ》|等《ら》は授業が終れば急に顔の筋肉がたるんで、それぞれ勝手放題のことをしゃべりまくるのである。加藤だけは違っていた。加藤は授業中も、授業が終ったときも、めったに笑い顔を見せたことはない。  外山三郎は授業中、しばしば加藤の方へ眼をやった。授業が終ったら、きのうのことを聞こうと思うから、つい加藤の方へ眼が走るのである。  加藤は外山三郎の視線をはねとばすような眼で見かえしていた。容易には近づきがたい少年の眼にはね返されると、外山はひどくあわてていい間違いをやったりした。  授業が終ると、加藤は隣席にいた木村敏夫に|引《ひき》|摺《ず》られるようにして教室を出ていった。そのあとを外山三郎が追った。彼はなんとかして、加藤と山のことを話して見たかったのである。加藤と木村は食堂の方へ歩いていった。食事には早い時間だった。研修生たちは食堂の隣のピンポン台のまわりに集まった。いつもと違った空気があった。外山は研修生たちの間で試合があるのだなと思った。彼等は他のピンポン台が|空《あ》いているのにもかかわらず、廊下の近くの一番悪いピンポン台のまわりをかこんで試合を始めた。どうやら、同期生同士の試合のようだった。  加藤の番が来た。彼はバットを持ったが、けっして攻撃はしなかった。防備もしなかった。少なくとも防ぐという受身の配慮は彼の頭にはないようだった。加藤のバットはピンポンの球の来る方向に動いているだけのことだった。反射的に球の来る方へ彼のバットが延びて行って、そこへ飛んで来る球をはねかえしているに過ぎなかった。彼がミスをすることもあるし、相手がミスをすることもあった。どっちにしても、彼はあまり|嬉《うれ》しそうな顔もせず、さりとて悲しそうな顔もしなかった。相変らずの怒った顔で、仁王立ちに立ちはだかって、ピストンのようにバットを動かしていた。ゲームの|渦中《かちゅう》にありながら、ゲームとは別の存在に見えた。激励するのは彼の友人であり、|喝《かっ》|采《さい》するのも|溜《ため》|息《いき》をつくのも、すべて彼以外の誰かだった。  加藤は終始無言だった。勝負にこだわっていない証拠に、加藤は、彼が勝っているにもかかわらず、レシーブの姿勢を取ったままでいた。彼の頭の中にはカウントはなかった。審判がサーブだといえばサーブをし、レシーブといえばレシーブをしていた。勝負には全然関心なく、球の来る方向にバットを出すということだけに全身の神経を集中しているようだっ た。  それでいて加藤は奇妙に勝った。見ていて、みっともないくらい、つまらない試合にもかかわらず、彼は勝った。彼が勝ったというよりも相手が負けた。相手は加藤という壁に向って、ひとりでピンポンをやってひとりで敗退していくのである。  加藤は五人抜いて、六人目の背の高い男に敗れたが、敗れてもまだしばらくはバットを持ったままで、そこに突立っていた。  外山三郎は加藤文太郎のピンポンを見ながら、なにか胸さわぎを感じた。口ではいえないなにかの感激だった。長い間求めつづけていた人間にめぐり合ったような感激だった。これこそほんとうの山男、名実共に日本を代表する大登山家になる素質を持った男ではなかろうか、外山はそう直感した。 「加藤君、すばらしいじゃあないか」  試合が終ったあとで外山三郎は加藤文太郎にいった。すばらしいというひとことではいい尽せないものがあったが、適当な表現の仕方が発見できなかった。  すばらしいといわれても加藤は別に自分のやったことがすばらしいものだとは思っていなかった。加藤は本来ピンポンがそれほど好きではなかったが、いつの間にか選手にさせられていたのだ。 「きのうの足の|怪《け》|我《が》はたいしたこともなくてよかったね」  外山三郎は加藤の|運《うん》|動《どう》|靴《ぐつ》の足もとを見詰めていった。加藤は黙ってうなずいていた。余計なことをなぜ聞くのかという顔だった。 「あとでぼくのところへ来てくれ、六甲山付近のくわしい地図があるから見せてやろう」  外山三郎はそういい置いてピンポン室を出ていった。  外山三郎は設計課の自分の席に落着いて、|煙草《た ば こ》に火をつけた。やれやれという気持だった。一時間立ちつづけの講義はつかれる。それも今日一日の仕事の終りの時間だからこたえる。設計の仕事とは別に教育という仕事を背負いこまされていると、なにかにつけて落ちつけない。設計にも念が入らないし、教育にも力が入らない。 「講義の方はなんとかしてやめさせて|貰《もら》いたいもんだな」  彼はひとりごとをいった。そして|直《す》ぐ、怒ったような顔をした加藤文太郎のことを思い出した。講義をやめるのもいいが、講義をやめると、加藤のような少年と顔を合わせられなくなる。それが外山にとってはたいへん残念なことに思われる。そうかといって、このまま引受けてやっていると、いよいよ講義の方へ深入りさせられてしまいそうだった。事実彼の教え方が上手だし、研修生に人気があるという理由で、彼の授業が、週三回になりそうな気配があった。 「まあ、ほどよいところでやめさせて貰わないと」  外山三郎は書きかけた設計図の前に|坐《すわ》った。船の形らしいものはどこにも認められない船の設計図がそこに描かれようとしていた。書き始めであり、その図が、船のアッパーデッキであることは専門家が見ればわかる程度にまで進んでいた。  彼はその図面に|喰《く》い入るように見入ってから、大きくひとつうなずいて立上ると急に帰り支度を始めた。  既に設計室には彼を除いては誰もいなかった。彼はテーブルの上を片づけ、あすの朝の準備を整えてから、机を離れた。そこに加藤文太郎が立っていた。 「なんだ来ていたのか。それならそうと、なんとかいえばいいのに、だまって突立っていて……」  外山三郎は加藤をちょっとたしなめてから、彼の机の引出しから、五万分の一の地図を張り合せたのを出して、加藤の前にひろげた。 「ゆうべは驚いたよ。あんなかっこうで山からおりて来たら、誰だってびっくりするぜ。いったいどこから君は山へ入ったんだね。ほら、ここね、ここが君とぼくとが会ったところなんだ」  外山三郎は地図の一点を右手のひとさしゆびでさしていった。きれいに|爪《つめ》が切ってあった。ピアニストのように細く伸びたゆびだった。 「どこから山へ入ったんだね」  黙っている加藤に外山三郎はうながすように聞いた。 「わかりません」  加藤ははっきり答えた。口をとがらせて、わからないことが当り前のような口ぶりだった。 「わからないってきみ、わからないからここに地図を開いたのだよ」 「地図があったってわかりません」  加藤文太郎は威張ったようないい方をした。 「じゃあきみが、きのうの夕方どんなところを歩いたかをいうがいい。そうしたらぼくがその場所を地図の上で探してやろう」  外山三郎は、加藤と地図とを等分に見くらべながらいった。 「お寺の桜を見に行こうか、山へ登ろうかとしばらく迷ってから山へ登っていきました」  加藤のそのひとことで、地図の出発点はどうやらきまった。それからは加藤の話のとおりに、地図の上を外山三郎の爪の先が走っていった。 「きみがうしろ向きに|這《は》っておりたというのはこれだよ。ここをおりて、山道へ出て、橋を渡って、そしてここでぼくと会ったのだ」  外山三郎は加藤の歩いた道を追跡し終ったあとでさらに、 「今度はきみ自身で、考えながらもう一度自分の歩いた道を追って見るがいい」  加藤は地図を見るのが初めてではなかった。おおよその地図の見方は知っているが、地図を実際使用したことは一度もなかった。使おうと思ったこともなかった。だから、彼が汗を流し、|暗《くら》|闇《やみ》の中で|彷《ほう》|徨《こう》し、やぶでかぎざきをこしらえた道を、地図上に示すことができるということは驚嘆すべきことだった。彼は図上に足跡を追う遊びに興味を覚えた。 「地図の使い方は、非常に簡単でありながら非常にむずかしいものなんだ。地図の見方がほんとうにわかるようになれば一人前の登山家になれる」  そういう外山三郎の顔を加藤はちらっと見た。地図にはある程度の関心を持ったが、それ以上のことは加藤の頭の中にはないようだった。 「どうだね加藤君、ぼくといっしょに六甲縦走をやろうか」  外山三郎は笑いながらいった。おそらくこの少年は二つ返事で承知するだろうと外山は思った。会社の技師と研修生の関係からいって、技師に誘われたらいやもおうもない|筈《はず》だ。しかしこれにも加藤は反応を示さなかった。加藤は縦走という言葉さえ知らなかったのである。 「きみは山が好きなんだろう」  外山三郎はややあせりぎみにいった。 「好きでも|嫌《きら》いでもありません」  外山三郎は加藤の予期に反した答え方で、ひどくがっかりした。 「それならなぜ、きのうのようなことをやったんだね」  それに対して加藤はますます期待はずれの答え方をした。 「海を見たかったからなんです」  加藤文太郎はけろりといってのけた。 「海をね、なるほど。君は浜坂の生れだったね。海が見たいのは無理がない、しかし山だっていいぜ、加藤君」  だが加藤はそれには答えず、怒ったような表情にかえると、もうなにを聞かれても答えないぞというようにそっぽを向いた。      2  海は近いのに海からの風は、研修生たちの住んでいる寮までは吹いてこなかった。夜になると、ぴたりと風はやみ、寮の中は|蒸《むし》|風《ぶ》|呂《ろ》のような暑さだった。 「おい木村、外へ出よう」  加藤文太郎が木村敏夫を誘った。木村は返事をせず、ショートパンツ一枚のはだか姿で畳の上に寝そべったままだった。やせた胸のあたりに汗が光っていた。外へ出ないか、加藤は、壁の|釘《くぎ》に掛けてある、木村のシャツを取ると木村の方へ投げてやりながらいった。むりにでも引張り出したいふうだった。 「でたくないんだ。外へ出たけりゃあ、きみひとりで出ていくがいい」  木村は天井を見上げたままでいった。  加藤はその木村をしばらく見おろしていたが、自分もシャツを脱ぐと、木村と同じように畳の上にごろりと横になった。ふたりはそのまま無言でいた。三十分、一時間たってもふたりは黙っていた。とうとう沈黙に負けて木村の方で加藤に声を掛けた。 「おれはな加藤、余計な同情なんかして貰いたくないんだ」 「同情なんかしていやしない」  加藤はぶっきら棒にいった。 「それなら、なぜおれを外へ誘い出そうとしたり、おれのそばで寝ころんでいたりするんだ。おれはひとりでいたいんだぜ」  木村は半身を起き上らせていった。 「おれは、きみに夜の海を見せてやりたいんだ」  加藤は木村の腕を取った。こうなったらなにがなんでも外へ引張り出すぞという権幕に見えた。よせよと木村がふり切ろうとしたが加藤は取った腕をはなさずに、引きずるように立上って、廊下の方へ出ていこうとした。木村はしばらくは抵抗していたが、やがて力を抜くと、シャツを着た。どうにでもなれという顔だった。  星はうるんで見えていた。  寮から海岸まではそう遠い距離ではない。その道をふたりは黙って歩いていった。海の見えるところまで来ると、神戸の|背稜《はいりょう》の山から吹きおりてくる風が涼しく感ぜられる。  海は全般に暗く海上を走る|灯《ひ》はまばらだった。  加藤は海岸伝いに西へ向って、あとからついて来る木村には無関心のような顔で、歩き出した。神社の鳥居の前を通り、運河のところまで来て、加藤はやっと立止っていった。 「もっと歩こうか」  木村は黙ってうなずいた。それから加藤の足は前よりも速くなった。海岸には違いがないが、けっして素直な海岸ではなかった。ところによると、海岸から離れた道を|迂《う》|回《かい》しなければならないところもあった。へんな男がうろうろしていたり、あやしげな男女が|徘《はい》|徊《かい》したりしていた。そういう暗がりをさっさと歩いて、妙法寺川の河口に達したところで二人は申し合せたように海に向って腰をおろした。 「おれは会社をやめようかと思っているんだ」  木村がいった。 「一年半もいてやめるのか」 「おれにはどうもここの仕事が向かないらしい。技師になろうなどと思って入ったのが間違いだったのかも知れない。それに教官の中には影村のようなやつがいるし……」  木村敏夫が影村と呼び捨てにした影村一夫は技師になったばかりの教官だった。木村だけにつらく当るのではなく、研修生の|誰《だれ》、かれの差別なく、しめつけていた。教育のための教育というよりも、会社側に対する点数かせぎと見られるようなふしがないではなかった。 「今日だってそうだ、なにもあんなにひどく怒鳴らなくてもいいだろう」  木村はそれまでたまっていたものを一度に吐き出すようないきおいでしゃべり出した。  製図の実習の時間中だった。  教場を|見《み》|廻《まわ》って歩いていた影村一夫が突然大きな声を出した。 「おい、なん年たったら鉛筆の使い方が覚えられるのだ。紙に対して、鉛筆は常に一定の傾斜角度を保っていなければならないということは、お前たちが研修生になったその日に教えた筈だ。それから一年半にもなる。いったいきみは製図をやるつもりがあるのかないのか。いやいやながらやっていると、そういうことになるのだ。見ろ」  影村は木村の書いた図を指さしながら、 「線の太さが書き出しと終りでは違うだろう、鉛筆の持ち方が悪いからこうなるのだ。本気になってやる気がないなら故郷に帰って百姓をやれ」  故郷に帰って百姓をやれというのは、影村の口ぐせだった。故郷に帰って、こやし|桶《おけ》でも|担《かつ》げということもあった。農家の子弟が圧倒的に多いからそういったのであろうけれど、それには多分に、|彼《かれ》|等《ら》の故郷の生業に対する|軽《けい》|蔑《べつ》が含まれていた。  木村は青い顔をしていた。鉛筆を持つ手がふるえていた。 「鉛筆のけずり方だってよくないぞ。もう一度一年生に|戻《もど》って始めっからやり直せといいたいが、ここは学校ではない。お前たちはちゃんと月給貰って、勉強させて貰っているんだ、できないからといって落第させるわけにはいかない」  最後の方は木村にではなく、研修生全部に対していってから影村は、また、こつこつと|靴《くつ》|音《おと》を立てて教室の中を廻りはじめた。影村一夫の一重まぶたの細い眼はいつも光を放っていた。容易に妥協を許さない鋭い|眼《ま》なざしだった。その視線が当ったところには、きっとなにかが発見され、その発見に理由づけられ、そして結末をつけようとする眼であった。ただ漫然と|眺《なが》めている眼ではなく、教官と研修生という相対関係を強度に意識した眼であった。  影村一夫の眼がこわく見えるのはその眼の構造にもあった。彼の一重まぶたは|眼《め》|尻《じり》に寄ったところで、角を立てていた。鋭角に肩をいからせた眼尻といったら当っているかも知れない。要するに、永続的に眼に角を立てた|容《よう》|貌《ぼう》を想像すれば、それが影村一夫だった。  一般的に、設計技師たちの仕事中の眼は鋭かった。設計図が彼らのすべてであり、そこから新しい機械が次々と生れ出るために、彼等の眼は図上において百分の一ミリの誤差もないように張りつめていた。だがひとたび彼等の眼が図上から離れた時は彼等の眼は普通の眼にかえっていた。同じ教官の外山三郎は常にその眼に微笑をたたえていた。その外山も一度製図板に|対《たい》|峙《じ》すると、よりつきがたいほどきびしい眼つきをするのを研修生たちは知っていた。眼がそのように使い分けされるのは、設計技師となる以上やむを得ないことだと考えられていた。影村は例外の人だった。彼の眼は、仕事中も、そうでない時も同じようにつめたく張りつめていた。研修生にとっては|怖《おそ》ろしい眼だった。常に研修生たちのあら探しをしている眼に思えてならなかった。研修生たちのあらを探し出しては怒鳴りちらして、研修生に恐怖を与えることが、結局は教育の成果を挙げることだという単純な考え方をしているように思われてならなかった。影村が眼に角を立てるのは、彼のつめたい性格をそのまま示していた。彼の人となりの半生がその眼に圧縮されているようだった。 「おれだってあいつがだいきらいなんだ」  加藤がいった。被害者は木村ひとりではなく、研修生全体であるといいたかった。 「いや、あいつはおれに特に眼をつけているんだ」  木村は暗い海に眼を送りながら、 「あいつは|蛇《へび》のような眼の男だ、あいつに見こまれたらおしまいだ、研修を終って技手になっても、上役にあいつがいたら同じことだ。たとえ技師になったって、上にあいつがいたらやっぱり|睨《にら》まれるだろう」  そして木村はずっと静かな調子でいった。 「やっぱりおれは会社を|止《や》める」  秋のおとずれは海からやってきた。土用波が岸壁に当ってくだけ散る音を聞いていると、かけ足でやってくる冬の海を感ずる。加藤文太郎は秋の海を見ながら、思いは日本海に飛んでいた。故郷の浜坂でも秋は山よりも一足先に海にやって来る。大陸からの風が強くなって秋は深まっていって、やがて季節風帯に飲みこまれてしまうと本格的な冬になるのだ。  海がすっかり秋のよそおいをこらしてから、ゆっくりと、山々に秋がおとずれる。 「おれは冬にならないうちに、おそらく会社をやめるだろう」  木村敏夫は加藤文太郎にいった。  木村の心は、会社から遠く離れていた。木村をそうしたのは影村であり、影村と木村との間は、もうどうにもならない状態にあることを加藤はよく知っていた。 (ふたりはにくみ合っているのだ)  加藤は木村の方をちらっと見た。木村は会社が終ると、食堂にはいかずに、|真《まっ》|直《す》ぐに寮に帰って来たままだった。二寮五号室には、加藤と木村の勉強机が窓側に並んで置いてあった。木村は勉強机に向ってしきりに|烏口《からすぐち》を|磨《と》いでいた。  その日の午後、影村教官は烏口の磨ぎ方が悪いといって木村をひどく|叱《しか》った。きさまは、とても設計技師などになれる見込みがないから、今|直《す》ぐ故郷に帰って、こやし桶でも担いで歩くがいいと、木村を|面《めん》|罵《ば》した。  烏口の磨ぎ方はむずかしかった。|油砥石《あぶらといし》で根気よく時間をかけて素直に磨がねばならない。刃先が合うようにするどく磨ぎ上げないと墨の乗り具合が悪くなるし、そうかといって磨ぎ過ぎると、製図用のクロスを切断してしまうことにもなりかねない。  設計技師になる段階の一つとして、製図はもっとも必要な学科だった。 「烏口は製図工にとっては武士の刀のようなものだ」  影村は製図用具に対する心がまえとして、そんなふうなことをいった。研修生は懸命に烏口を磨ぎ、磨ぎ上げたものを机の上に並べて影村教官の検閲を待った。そうするのが影村の製図の時間の風習だった。木村の磨ぎ方は悪かったには違いないが、ことさら木村だけが叱られるほど悪くはなかった。誰が磨いでも、影村の気に入るようにはできない。こういう仕事には完全だという基準点がなかった。そこに主観が立入る余地は充分にあった。同じように時間をかけて磨いだ烏口に対して、それを磨いだ研修生が、影村の気に入りだったなら、よろしいというだろうし、気に入りでなかったならば、叱るに違いない。  木村は一生懸命になって烏口を磨いでいた。影村から叱られたから、明日の製図の時間には、ほめられるように、しっかり磨いでいこうというのではないことは、木村の顔つきから明らかだった。その一生懸命さが、なにか武器でも磨ぐ一生懸命さに見えた。木村は明らかに怒っていた。怒りをその小さい、銀色に磨ぐ烏口に向けていた。磨ぐことによって、怒りをやわらげようとするふうでもあった。木村の眼は烏口にそそがれていたが、眼を支配する心は別のものを見ているようだった。手は義務的に前後に動いて、いたずらに金属の|磨《ま》|耗《もう》を促進しているもののようだった。そんなふうな磨ぎ方をしていると、片べりになる可能性がある。少し磨いでは、刃先を明るいところに向けて見てはまた磨ぎ進むというのが常道である。木村の動作は異常だった。磨ぎ方だけでなく彼の眼つきはそれ以上に常軌を逸したものに見えた。  加藤文太郎は黙っていた。いっても|無《む》|駄《だ》なことだった。木村をこのようにさせたのは、影村が悪いのだ。影村の偏執的な木村に対する|憎《ぞう》|悪《お》が、木村になにかの|謀《む》|叛《ほん》をくわだてさせようとしているかのように見えた。  加藤は自分の机に|坐《すわ》って、彼もまた烏口を磨ぎ出した。木村と並んで、その単調な動作を始めると、木村のいかりが加藤に乗り移ったように、加藤もまた、あたりまえでない烏口の磨ぎ方を始めたのである。それでも加藤のいかりは、木村から伝染したいかりであり、直接的なものではないから、彼の磨ぎ方にはいくらかの余裕があった。加藤は、製図用のクロスをひと引きで真二つにするように、その烏口を鋭く磨ぎ上げようと思った。製図用クロスにT型|定規《じょうぎ》を置いて、それにそって、真一文字に線を入れると、クロスが見事に二つに切断される快味を想像しながら磨いだ。 「加藤、なにをするつもりなんだ」  木村がいった。木村も加藤の磨ぎ方が普通でないことを知ったのである。 「これでクロスを切断してやりたいんだ」 「ばかな|真《ま》|似《ね》はやめろ。犠牲はおれひとりでいいんだ」  犠牲だと、と加藤は烏口を磨ぐ手をやめて木村の顔を見上げた。間違いなく木村はなにかやるつもりだなと思った。ひょっとすると影村に、鋭く磨いだ烏口の先を向けるつもりかも知れない。そんなことをすればたいへんだと思った。 「おい木村、きみこそばかなことを考えているんじゃあないか。だいたい影村なんて|奴《やつ》は相手にしなけりゃあいいんだ。影村は烏口の磨ぎ方をうるさくいうけれど、あいつが仕事に使っている烏口をおれたちに一度だって見せたことがない。おれは、この次の時間に、そのことを影村にいうつもりなんだ。あいつが、おれの磨いだこの烏口にけちをつけた途端に、影村先生、先生の烏口を見せていただけませんかといってやるんだ。影村の烏口だって、おれたちの烏口だって、そう磨ぎ方に違いはないと思うんだ。おれたちはもう、一年半も烏口磨ぎをさせられているんだからな」  加藤はそこまでいってから、木村の表情が突然変ったのに気がついた。木村は、磨ぎかけた烏口をそこに置くと、新しい敵に対して構えを取り直したような眼つきでなにかを考えだした。加藤がいくら話しかけても答えなかった。  翌日の午前中の外山三郎の機械工学の授業が終ったあとで、木村は外山三郎に面倒臭い質問をした。 「一緒にぼくの部屋へいこう。わかるように教えてやろう」  外山三郎は木村の質問が、彼の教えている機械工学とはかけはなれた、船体に関することだったので、彼の設計室につれていって、よく教えてやろうといったのである。外山は研修生から面倒な質問を受けると、よく彼の部屋へ連れていく例になっていた。 「じゃあ昼休みにいきます」  木村はそういってぺこりと頭を下げた。 「昼休みか、昼休みでもいいが」  外山三郎は、木村がなぜいますぐ来ないで昼休みに来るのか疑問に思いながら、木村のうしろ姿を見送った。  木村は設計室の外山三郎のところにやって来ると、ポケットから烏口を取出して、昼休み中で誰もいない設計室をひとわたり見廻してからいった。 「先生この烏口の磨ぎ方は悪いですか」  どれといって外山はその烏口を取って光に当てた。よく磨ぎこんであった。 「いいじゃあないかな、このくらいで」 「影村先生はこれではいけないっていうんです。ぼくは一度でいいから影村先生の烏口を見たいと思うんですが見せていただけないでしょうか」  直接影村技師に、見せて下さいといえばいいのにそういえないのかねと、外山は笑いながら木村にいった。外山は研修生たちが影村をこわがっていることをよく承知していたから、木村を影村の机のところにつれていって、机の上の製図用具の箱から烏口を取ると、 「さあよく見るがいい、どこかきみたちのものとは違う|筈《はず》だ」  外山は影村の烏口を木村に渡しながらいった。木村は影村の烏口を持って窓側に寄っていって、自分の持って来た烏口と比較しながら熱心に見入っていた。 「やはり違います」  そういって影村の烏口を、机の上に置くと、どうも|有《あり》|難《がと》うございましたと、外山に頭を下げた。 「きみ、船体のことで質問に来たのじゃあないのかね」 「いえ、もういいんです」  木村はなにかそわそわした態度で設計室を出ていった。  影村の製図の時間は午後の第一時間目だった。影村は授業の始まる前、いつものとおり製図用具の点検をやるから、机の上に|揃《そろ》えるようにいった。  影村は、すべての研修生が予期していたように、木村敏夫のところで、烏口の磨ぎ方を調べてから、大きな声で怒鳴った。 「なんだ、こんな磨ぎ方ってあるか。いつまでたってもこんな磨ぎ方しかできないなら、ここをやめて、故郷へ帰れ、だいたいきさまは能がないんだ」  その答えを待っていたように木村が立上った。立上るというよりも、席からとび上って身構えるようにしていった。 「影村先生、その烏口をよく見て下さい。それはあなたの烏口です。先生はあなた自身が能がないということを証明したのです」  木村はそういい終ると、あわてている影村をそこに残して教室を出ていった。 「木村と同じ部屋にいるものは|誰《だれ》だ、すぐ木村を呼んでこい」  影村が|眉《み》|間《けん》の辺りに青筋を立てて怒鳴るのを見ながら、加藤文太郎はゆっくり席を離れた。  寮に帰ると、木村は信玄袋をかついで部屋を出るところだった。 「あとで|布《ふ》|団《とん》を送り返してくれよ。きみにはいろいろ迷惑かけたけれど、あの影村がこの会社にいるかぎり、おれはここにいるのがいやなんだ」  加藤は、木村と一緒に寮の門を出た。そのまま彼と二人で汽車に乗り、故郷の浜坂に帰りたい気持でいっぱいだった。  加藤文太郎は|憂《ゆう》|鬱《うつ》な秋を迎え、やがて冬を迎えた。木村敏夫が去ってから加藤は、|淋《さび》しい毎日を送っていた。ピンポン室にもほとんど顔を見せなかった。彼は会社がひけると寮に帰って本を読んでいるか、時折海岸に出て海を眺めていた。加藤はそれまでも無口だったが、木村敏夫が会社を去った日の午後、しょんぼり帰って来た彼を影村一夫がひどく痛めつけて以来、加藤は徹底的な無口となった。 「きさまは木村を迎えに行ったのではなくて送りにいったのだろう。どうせきさまも、木村とぐるになって、おれの烏口を設計室から盗み出したんだろう」  影村は木村に対する|鬱《うっ》|憤《ぷん》を加藤に向って|叩《たた》きつけた。しかし、なにをいっても加藤は黙っていた。全く知らないことだった。どうして木村が影村の烏口を持ち出していたのか、加藤の知らないことだったが、その動機については加藤には思い当ることがないではなかった。影村の使っている烏口を見たいといったのは木村ではなくて加藤だった。 「おい加藤、返事をしないのは、おれのいうことが気にくわないからなのか。もし不満があったら、きさまも、布団を担いで浜坂へ帰るんだな」  影村が浜坂といったとき加藤の眼が光った。加藤の出身地を影村がなぜ知っているのだろうか。出身地まで知っているということは、それだけ、影村が加藤のことを深く見ていることだった。それは決していいことだとは考えられなかった。見方をかえれば、影村に眼をつけられたことになり、いつかは第二の木村敏夫にもなりかねない運命を背負わせようとしているふうにも思われてならなかった。  加藤は研修生仲間の|噂《うわさ》を聞いていた。毎年の脱落者は例外なく影村に|睨《にら》まれた者たちであった。影村に一度睨まれると、いかにあがいても、もうどうにもならないのだといわれていた。影村は寮の窓の外にしのびよって研修生たちの話を盗み聞きしたり、研修生たちの中へスパイを置いたりするなどという噂さえあった。  影村は加藤に坐れとはいわなかった。彼の授業が終るまで立たせたままで教室を出ていった。その次の時間は外山三郎だった。彼は二十分遅れて教室に入って来た。外山は|蒼《そう》|白《はく》な顔をしていた。 「加藤君、木村君はほんとうに寮を出ていったのかね」  外山三郎は加藤に聞いてから、どういうふうにして木村が影村の烏口を設計室から無断で持出したかを説明した。 「ぼくがうっかりしていたからいけないんだ。責任はぼくにある。影村技師にはぼくからよく謝ってあるから君たちが心配することはない」  外山は授業を始めたが、この事件が頭の中にあるらしく、いつになく元気がなかった。  木村敏夫事件はそれで終ったが、影村の木村に対する憎しみは、そのまま加藤に|転《てん》|嫁《か》されたようだった。それは、加藤だけではなく研修生全体にも感じられた。影村は授業中に突然暗い顔になることがある。絶望の|淵《ふち》に立たされたような顔をして教壇に立ちすくんで、なにかに対して、はっきりと心の抵抗をこころみるような顔をする。そして、次の瞬間、ものすごく陰惨な視線を教室の誰かに向けるのである。加藤はその視線をいつでも受止めねばならなかった。がっちり受けとめてけっして眼をそらさなかった。影村の眼から逃れたいときは、加藤もまた木村と同じように、この会社から去らねばならないと思っていた。会社には別に未練はなかった。浜坂の家へ帰っても、叱られる心配はなかった。父も兄も、顔では怒っても、心では、末っ子の文太郎の帰って来たのを喜んで迎えるだろう。しかし、加藤は、影村の眼に反発した。その眼に負けることが|癪《しゃく》だった。設計技師の夢を捨てたくないという気持よりも、影村に負けたくない気持が、加藤を支えていた。おそらく、将来、この造船会社にいる限り影村にはいじめつけられるだろうと思った。それを承知で、加藤は、この影村の陰険な眼と闘う決心を示していた。  大正十一年四月、加藤文太郎は研修三年生となると同時に、彼の部屋に同僚が一人入って来た。新納友明は、加藤より二つ年上だった。小学校の高等科を卒業して、研修所には入らず、直接、工員として造船所に勤務するかたわら、勉強して部内の編入試験に合格して、三年に入って来たのである。のっぽで色の黒いやせた男だった。|愛《あい》|想《そ》のいい男でいつもにこにこ笑っていた。  新納友明は会社の内部のことをいろいろと知っていた。要領のよさも、ちゃんと心得ていた。少年の域を脱して、すっかり大人になったような口をきき、また大人の真似をよくやる男だった。すべての人に愛される型の男で、つきあいも広く話題は豊富だった。  新納友明と同居するようになってから加藤文太郎の生活はまた少しばかり変った。しばらくすると、寮内における生活の主導権は新納が取るようになった。二つ年上で、会社に古く、しかも同県人であるということが、文句なしに加藤を屈伏させた。加藤は新納のいうとおりになった。新納のあとをついて|廻《まわ》ればひどく愉快だった。  加藤は時には笑い顔を見せることもあった。 「なあ、加藤、お前地図遊びってことを知っているか」  新納友明がある夜加藤にいった。 「五万分の一の地図を八つに折ってな、その地図を片手に持って歩き廻るんだ。帰って来たら、その地図の上に歩いた道を赤鉛筆で引くんだ。毎週日曜日には、出かけて行くとして、一カ月で真赤になるところもあるし、中には、二つきかかっても三つきかかっても、いっこうに赤線が入らないところもできる。山なんかはそう簡単ではないからな」  新納は、彼の持物の中からその実例を出して示した。神戸の五万分の一の地図の、右下四分の一がほとんど赤く塗りつぶされていた。 「遊びには違いないが時間がかかって骨の折れる遊びだ。二、三人で競争するのもいいし、ひとりだって充分楽しめる遊びだ。|面《おも》|白《しろ》いぞ、どうだやって見る気があるか。地図を片手に一日歩き廻って帰って来るとひどく楽しい気持になれるものだ。まるで一週間たまった毒素が汗となっていっぺんに出てしまったような感じになれる」  新納友明はそれ以上特に、地図遊びを彼にすすめようとはしなかった。 「今度の日曜日におれは|明《あか》|石《し》に行って明石川を上流に向って歩いて見たいと思っている。よかったら一緒に行かないか」  加藤はその計画に参加することを同意した。新納は明石付近の五万分の一の地図を暇さえあれば|眺《なが》めていた。時折、黒鉛筆で地図に符号を書きこんだりしていた。同じ地図を飽きもせず、毎晩毎晩眺めている新納の努力が加藤にわからないことはなかった。地図遊びに出発する前に、地図を空暗記するほどよく研究して置けば、道にも迷わないだろうし、いちいち人に|訊《き》かないでもいいだろう。地図を何枚か張り合せるのは、遠くの地形を見るためだろうと思った。加藤も新納の真似をした。地図を眺めているのは愉快だった。じっと地形を見ていると、そこに山が盛り上って見えて来たり、音を立てて川が流れているのが見えるような気がした。針葉樹の印のあるところには赤松の幹が見え、|濶《かつ》|葉《よう》|樹《じゅ》のマークのところには、眼を奪うような新緑のクヌギ林やナラの木の林が見えた。 「こうしていると、地形が見えて来るだろう。地図が地図でなく、写真のように見えて来るだろう」  新納が加藤に笑いかけた。  その夜加藤は眠りにつく前に、はっきりと明石川を眼に浮べた。それは|悠《ゆう》|々《ゆう》と流れる大河だった。大河に沿っての風物は、すべて故郷の岸田川の流域とよく似ていた。山と山の間から流れ出た川は太古のままの静けさを持続しながら海に消えていく。その河口の光景までも故郷のそれと同じだった。  翌朝早く寮を出て二人は汽車に乗った。その出発からして加藤には異様なものだった。汽車は西に走るのに、なんだか東に向って走っているような錯覚に襲われた。明石駅についても、その地理的倒錯は直らなかった。  加藤は新納の後をついて歩きながらおそらく、新納は明石にはもう何回か来た経験があるに違いないと思った。新納は誰にも聞かずに、明石川のほとりに加藤をつれていったのである。 「明石は初めてではないでしょうね」  加藤は念を押すように新納に聞いた。 「いや初めてさ、なぜ」  新納の眼には|嘘《うそ》はなかった。加藤は思わず赤い顔をした。おそらく、加藤ひとりでは、一度も人に道を聞かず、地図もろくろく見ずにここまで来られないだろうと思ったからである。  明石川の風景は加藤の想像していたものとはかけ離れていた。山と川と畑と人家とばらばらにして見れば似ているけれども、組立てた景色は全然違っていた。明石川は全体的に明るく華やかに見えた。故郷の落着いた流れをそこに求めようとしても無理だった。  地図を覚えていたつもりでも、なんにも覚えていなかったし、地図と現実とを合わせて見ても、想像していた地形とは違っていた。結局、加藤が地図で知り得ていたことは、そこに川が流れているという事実以外にはなにものもなかった。  加藤は改めて、新納の顔を見直した。いつも軽口を叩いている新納友明が、すぐれた人間に見えた。なにか深遠なものを内部にたくわえているように思われた。友人として上位にすえるに充分な人間であると思われた。 「新納さん、地図が読めるようになるにはずい分かかったでしょう」  しかし、新納は、たいしてもったいぶった顔もせず、 「なあに、ただ地図を片手に歩いているうちに地図の見方を覚えてしまったんだ。もっともこういう遊びのあることや、地図の見方の基礎はうちの会社の外山さんに教わったんだがね」 「外山技師ですか、あの外山三郎技師……」  加藤は思わず大きな声を出した。外山が山に行かないかと誘ってくれたのは丁度一年前だった。  加藤は時々教場で彼に向って笑いかけて来る外山三郎の顔を思い出しながら、もう一度外山技師に山に行こうとすすめられたら、二つ返事ででかけるだろうかどうかを考えて見た。 「外山さんはいい人だよ。あの人がいるから研修生はずい分助かるんだ」  新納がいった。  加藤は大きく何かうなずいた。うなずきながら、外山三郎の端麗な顔と陰険な影村一夫の顔とを心の中で二重に見詰めていた。 「さあ、これからはただ歩くだけなんだ、いそがずに休まずに、歩きつづけるのだ」  新納が先に立って歩き出した。      3  製図にもっとも力を入れて教育されている研修生たちにとって、夏は苦しかった。額から流れ落ちる汗は|鉢《はち》|巻《ま》きをして防ぐことができても腕ににじみ出して来る汗はどうすることもできなかった。それでも研修生たちは図を書かねばならない。それが|彼《かれ》|等《ら》に与えられた仕事であるとあきらめていても、|烏口《からすぐち》を持つ手ににじみ出て来る汗を見つめていると、なんのためにこんなところに来たのかとせつなくなることがある。  影村教官はこの暑熱の中に、いささかも手をゆるめようとはしなかった。暑さに負けるのは勉強に身が入っていないからだという、彼の持論を研修生たちにおしつけようとしていた。 「泳ぎたい」  と彼等は、通風の悪い教室の窓から白い空を見ながらためいきをついた。彼等は神港造船所技術研修生という特殊な教育機関の一員ではあるが、広義に解釈すれば生徒であることに間違いがなかった。生徒であるならば、少々の暑中休暇を与えられてもいいし、それは認められないとしても、たまには水泳にでもつれていって|貰《もら》いたいという希望を持っていた。しかし、これを口に出すものはいなかった。学校と会社の研修所との違いはこんなところにはっきりと現われていた。彼等は、口ではぶうぶう言いながらも、教官が教室に入って来ると、なんの不平も不満もございません、私たちは勉強だけが生命ですという顔をしていた。 「ひどいな、この暑さは、この教室はまた特にきびしい、これじゃあ勉強は頭に入らないだろう」  そう言ったのは外山教官だった。彼は気の毒そうに研修生たちの顔を一人一人見廻していたが、その眼を加藤文太郎のところで止めると、 「加藤君、きみは浜坂の出身だからこういう日は勉強よりも海で泳ぎたいだろう」  と笑いかけてから、すぐまじめな顔に|戻《もど》って、どのぐらい泳げるかと訊いた。 「泳げといわれたら一日中でも泳いでいることができます」  加藤文太郎は立上ってはっきり答えた。 「一日中……」  外山はびっくりしたような顔をした。どのくらいかと彼が聞いたのは、耐泳時間ではなく、五十メートル、百メートル、一マイル、そんな遊泳距離を期待しながら問いかけたのにたいして一日中と、ほとんど想像もしなかった回答になったのに、いささかあわてた。外山がなるほどなるほどと自分自身に納得をおしつけながらうなずいているのも|滑《こっ》|稽《けい》であった。 「そうだ君の家は漁業をやっているんだったね、それなら、きみが一日中泳ぐことができても不思議はない。ところできみ、もぐるほうはどうかね、潜水だよ、この方は一日中というわけにはいかないだろう」  研修生たちがどっと笑った。加藤はちょっと首を|傾《かし》げて考えていたが、 「やって見ないとわかりません」  と答えた。 「ぼくも|些《いささ》か潜水には自信があるんだがね、どうだみんなで海へでかけようか。こういう日には、思い切って、海へ出た方が|身体《か ら だ》のためにいい」  外山三郎はなにを思ったか、授業をやらずに教室を出ると、ものの十分もして、にこにこしながら引返して来て言った。 「午後は水泳だ。水着の用意をして午後一時に寮の前に集合すること」  研修生たちはどっと声を上げた。声を上げてからすぐまわりを見廻した。彼等は外山教官の思いやりのある処置に対して喜びながらも反射的に影村を代表とする一部教官の冷酷な面を思い出したのである。このままで済むわけがない。彼等は本能的に、悪い結果を予想した。  海は郷愁に満ちていた。加藤文太郎は沖に向って泳いでいた。やわらかく、ほのあたたかい海水の感触は母の思い出を呼んだ。一日中だって泳いでいられると答えたとおり、このままアメリカまで泳いでいけと言われれば泳いでいけそうな気がした。  メガホンで呼ぶ声が聞えるのでふりかえると、見張り台の上から監視員が引き返せと怒鳴っていた。海水浴場の区域外に泳ぎ出たために注意されたのである。加藤は海水浴場のせまさに不満をいだいた。 (ばかばかしい、海に境があるものか)  みんなの泳いでいるところに帰って来ると、競泳をやろうという話が出たところだった。  外山は白い線の幾本か入った帽子をかぶっていた。泳跡を立てながら、クロールで泳ぐ彼の様子から見ると、学生時代に本格的な水泳をやったことが想像された。加藤は外山の泳ぎっぷりを見ながら、 (あれはプールの泳ぎ方だ。海の泳ぎ方ではないぞ)  と父が言ったことばを思い出していた。 「さあ、用意はいいかな」  外山は肩ならしが終って海からあがると、研修生たちが立てて来た|旗《はた》|竿《ざお》の間隔を眼で測りながら、研修生たちの中から競泳に加わることのできるものを数名選び出して二組に分けた。加藤と外山がそれぞれの組の大将格となって競泳が始まった。  勝負は外山組の圧倒的な勝利となって終った。その次が潜水の個人競技だった。外山と加藤は赤旗に向って並んだ。審判役を引き受けた新納友明が出発の合図の手をたたいた。ふたりは水中に没し、やがて予定した時間に予定したところに外山がまず頭を出した。 「加藤が勝ったぞ」  研修生たちは手をたたいて喜んだが、その顔は、やがて不安な色に塗りかえられていった。水中に没した加藤の姿はなかなか浮き上って来ないのである。いくら加藤が潜水がうまくとも赤旗を越えることはむずかしいと思われる。加藤になにかがあったとすれば、その途中である。外山三郎の顔色が変った。  彼は今日の責任者である。暑さにうだっている技術研修生を海につれていってやりたいと、研修責任者の設計部長に願い出て、その許可を取ったのも、外山である。間違いがあったらたいへんなことになる。外山はなにか叫び声を上げようとした。その時である。全く意外なところに、加藤がぽっかり浮び上った。予定された赤旗と赤旗の距離を三倍にも延ばした海中に浮び上った加藤は、勝利を誇称するかのようにしきりに手を振っていた。 「加藤君、きみはやはり海の子だ」  外山は賞品の大スイカを加藤に与えながら、彼の卓抜した泳技を|誉《ほ》めた。加藤の貰ったスイカはその場で割られてみんなに配られた。加藤はスイカを食べながら海とは離れられないのだなと思った。父もその父も、そのまた父も海に生きて来たのだ。おれは骨の髄から海の男なのだ。神港造船所に入ったのも、船を設計する技師になり、やがては自分が設計した船に乗って七つの海に出ていく。それが夢だったのではなかろうか。  海からはさわやかな恒風があった。浜坂の海岸に|坐《すわ》っていても、やはり、海から陸へ向って風は吹いて来る。そして、|夕《ゆう》|靄《もや》が水平線に立ち込める|頃《ころ》になると、この風はぴたりとやんで|凪《なぎ》になる。やがて夜のおとずれとともに風は陸から海に向って吹き出すのだ。それが海の生理であり、日本海でも太平洋岸でも違ってはいないのだ。加藤はそのままの姿勢でいつまでも海を眺めていたかった。彼等がすばらしい午後の時間を終って寮にかえると、そこには驚くべき事実が待っていた。影村教官が指導主任になったというニュースをもたらしたのは、研修生の最上級生の野口だった。 「おれたちは五年生だ。もうすぐ卒業だからいいが、きみたちはたいへんだな」  野口がたいへんだなといった言葉の中には痛々しいほどの多くの|示《し》|唆《さ》が含まれていた。 「外山さんではなかったのか」  加藤は新納友明にいった。 「会社が、研修指導主任という役職を作るということは前から聞いていた。候補に外山技師と影村技師があげられていたこともわかっていたんだ」 「なぜ会社は外山さんを指導主任にしないんだ」  加藤は新納につっかかるようなもののいい方をした。 「外山さんは近く課長になるという|噂《うわさ》がある。それにな、会社はおれたちをしめつける目的で指導主任を作ったのだ。今までは研修責任者は設計部長ということになっていたが、それでは生ぬるいから、指導主任という名の班長を作ったのだ。なあ加藤、おれたちは会社の道具となるべき教育を受けているんだぜ、会社は人間を作ろうなんて考えてやあしない。すべて会社の利益に結びつく道具としての人間を作り出すための研修所なんだ。だから影村を指導主任にしたのだ。あの残忍な眼で|睨《にら》まれたら、道具は光る、中身はどうであっても、表面はぴかぴかに光って見えてくるだろう」  新納は最後の方で影村と呼びすてにした。はき出すようないい方だった。あきらめ切れない|憎《ぞう》|悪《お》を自分自身に向けようとする皮肉でもあった。  大正十一年十一月十七日——その日、加藤文太郎はいつもより一時間も早く起き出して、海岸へ走った。  薄曇りの空の下に海は|憂《ゆう》|鬱《うつ》な表情を浮べていた。アインシュタイン博士を乗せた北野丸らしき船は見えなかった。来ておれば、|和田岬《わだみさき》に|投錨《とうびょう》しているはずであった。  彼は岸壁に坐って一時間待ったが北野丸は見えなかった。新聞によると、もうそろそろ入港して来てもよさそうな時間だったが、それまで待つこともできなかった。 「北野丸はいたか」  寮にかえると新納が言った。 「いや、まだ見えない」 「まあいいさ、来ることには間違いないんだから、それにな加藤、今日午後の二時間目の堀田先生の熱機関の時間は自習になるかも知れないぞ、先生は出張中だ」  新納は加藤の眼を見てずるそうに笑った。自習の時間中に、こっそり抜け出す手もあるぞという暗示だった。自習の時間はごくまれにあった。名目は自習時間であるが、|或《あ》る程度の自由は認められていた。彼等は家に手紙を書いたり、こっそり教室を抜け出して、アンパンを買いにいったりした。 「そうだといいがな。一目でいいから、アインシュタイン博士の乗って来た北野丸を見たい」 「おれはちごうぞ、おれはほんもののアインシュタイン博士を見に行くんだ」  新納友明は|昂《こう》|然《ぜん》と言った。 「見に行くってきみどこへ見に行くんだ、まさか研修所を抜け出して神戸の|埠《ふ》|頭《とう》まで行くわけにもいくまい」 「頭を使うんだ、頭をな、今朝の新聞を見るとアインシュタイン博士の予定が書いてある。午後三時上陸、午後七時七分|三宮《さんのみや》発の列車で博士は京都に向う。おれたちの授業が終るのは四時だ、七時までには充分時間がある、三宮の駅で博士を見ることはできるわけだ」  加藤はなるほどとうなずいた。新納は|智《ち》|恵《え》|者《しゃ》だ。なににつけても彼の考えには、具体性がある。  加藤はアインシュタイン博士が世界一の科学者であることを知っていた。アインシュタイン博士の相対性原理というのが、非常にむずかしい理論であり、これを完全に理解する学者は日本に数人しかいないということも知っていた。偉大な科学者であり、音楽に|造《ぞう》|詣《けい》が深く、日本にやって来るのも、日本の古い芸術に接したいのが目的であるという新聞記事を読んだ。しかし加藤がアインシュタイン博士を一目でも見たいと思うのは、偉人にたいする、尊敬と|憧《どう》|憬《けい》だけではなかった。加藤が博士に心を|惹《ひ》かれたのは、博士が|上海《シャンハイ》に滞在中の言動を新聞で知ったからである。アインシュタイン博士は、上海を見物して|廻《まわ》ったとき、不潔な場所と目される細民街にひどく興味深げに眼を投げた。 「博士、この辺は上海においてももっとも不潔な場所でありますから……」  案内者は博士にその場から立去るように言ったが博士は動かなかった。 「なにが不潔なのだ、私にはなにひとつとして不潔には見えない。人間のもっとも自然な姿の表現をなぜ不潔と呼ばねばならないのだろうか」  博士は案内者に向ってはっきりと抗議した。  加藤文太郎はこの記事に心をうたれた。加藤は上海を知らない。その不潔な場所がどんなところかを想像することもできなかったが、新聞に報道された一面によって、アインシュタイン博士が世界一の大科学者であるとするよりも、もっとも人間愛に富んだ人のように思われてならなかった。彼はアインシュタイン博士を一目見たかった。血のかよっている彼の顔から、眼からほんのかけらほどでもいいから、光となるものを与えて貰いたかった。  午後の堀田技師の時間は新納友明の予想どおり休講となり、自習時間となった。 「おい、加藤、北野丸はもう和田岬に投錨しているぞ」  新納がにやりと笑って言った。  加藤は、机の上に熱機関の参考書とノートを並べて席を立った。教室を出るときには静かだったが、ひとたび外へ出ると、力いっぱい海岸へ向って走った。薄日のさしかける海の上に北野丸が浮んでいた。もうそこに何年間もじっとそうしているように悠々とかまえている北野丸に向って、神戸の埠頭からランチが二|隻《せき》近づきつつあるところだった。一隻のランチの中には華やかな色彩があった。加藤はそれを、アインシュタイン博士を迎えにいく学者群と博士に花束をささげる女性たちであろうと見ていた。もう一隻のランチはなにか騒然としていた。時折ちかちか光るのはカメラを持った新聞記者が乗りこんでいるようでもあった。ランチはやがて北野丸の巨体のかげになった。ランチを飲みこんだ北野丸は晩秋の空の下に薄い煙を吐いていた。 「どうだ、アインシュタイン博士を見たか」  その結果がどうだったかを知り切っている新納友明は、加藤にそんなからかい方をした。 「いいか、加藤、夕食を待っていると七時までに三宮へ行くことはできなくなるから、その前に寮を出るのだぞ、なあに、三宮でパンをかじればいいさ」  三宮のプラットフォームに突立ってパンをかじっていると、なんとなく薄ら寒かった。しかし加藤は、間もなく現われるであろうアインシュタイン博士のことを考えると胸がおどった。 「改札口あたりは混雑して|駄《だ》|目《め》だ、やはり、プラットフォームで待っているのがいい、きっと博士は列車に乗りこんだら、デッキに立って送って来た人たちに手を振るに違いない。その時よっく顔を見るのだ」  アインシュタイン博士の一行は、多くの人たちにかこまれて発車|間《ま》|際《ぎわ》に現われた。博士を取り巻く集団は、はたから人の近づくことを許さないほど緊密だった。博士は車上の人となった。新納の予想ははずれて、博士は映画俳優のやるように、デッキで手などは振らなかった。ふたりは列車に乗りこむ博士のうしろ姿をちらっと見たにすぎなかった。 「おい、この列車に乗って京都までいくんだ」  新納が言った。予想がはずれた新納は、同じ列車で京都まで行って、そこで博士を見ようと考えたのである。ふたりは動きだした列車に飛び乗って、席には坐らずにデッキに立っていた。京都につくと、ふたりはすぐプラットフォームに飛びおりて、博士の一行が乗っている|車輛《しゃりょう》の方へ走った。  加藤は列車からおりる博士をはっきり見た。博士は足元を見ていた。帽子をかぶってうつむいたまま列車をおりて来る博士の顔は、彼がそれまで新聞で見ていた、童顔の博士の顔ではなく、なにか憂鬱そうだった。博士はすぐ群衆に取りかこまれ、まるで|拉《ら》|致《ち》される人のように駅からつれ出され、自動車に乗せられた。 「こうなったら都ホテルに行くしかないぜ、博士はバルコニーに現われて、われわれにきっと手を振って|挨《あい》|拶《さつ》してくれるはずだ」  新納友明は、今度こそ間違いないぞという顔だった。  京都は深夜のように静かだった。アインシュタイン博士を飲みこんだ都ホテルの周辺には、博士の挨拶を期待して集まって来る人はいなかった。新納と加藤は、ホテルの明るい窓を見上げながら|茫《ぼう》|然《ぜん》と立っていた。万が一博士が窓から顔を出すかも知れないという期待もむなしかった。突立って窓を見上げているふたりを、サーベルを下げた巡査がうさん臭そうな眼で見て通っていた。 「帰ろうか」  新納が言った。ふたりは肩を並べ、だまりこくって京都の駅の方へ歩いていった。神戸について寮へ帰る途中で、屋台の店で|支《し》|那《な》そばをいっぱいずつ食べた。新納が支払いをすませた。割勘でいこうと加藤が十銭の白銅貨を出しても新納は受取らなかった。 「すまなかったな加藤」  新納は頭を下げた。 「いいんだよ。きみのおかげでおれはアインシュタイン博士を見ることができたのだ」  加藤は京都駅で見たアインシュタイン博士のうつむいた顔を思い出していた。  翌日は土曜日だった。会社は四時まで仕事はあるが研修生は午後二時以後は自由になれる。指導主任の影村から、加藤と新納が研修所事務室に呼び出されたのは授業が終ってすぐだった。 「|昨夜《ゆ う べ》きみたちは窓から寮に入ったろう」  きみたちはといいながら、影村の眼は加藤を見ていた。帰寮時間に遅れた理由は聞こうともしなかった。彼は規則をたてに取って|叱《しか》った。きみたちとかきさまたちとかいいながら、その対象は加藤ひとりであった。新納の方が年が上であるのに新納は問題にしなかった。 「だいたいきさまは根性がまがっているぞ、きさまは叱られると、すぐふくれっつらをする。きさまの心もそうなんだ、しょっちゅう、おれに向って不平を持っているからそういう顔になるのだ」  影村は加藤にはっきりいった。影村の青く光る眼の中には憎悪だけがあった。 「こんど帰寮時間がおくれてみろ|馘《くび》だぞ」  そして影村は帰れとふたりに言った。 「心配するな、会社はおれたちをかんたんには馘にはしない。おれたちにはもう、かなりの金がかけてあるからな。気になるのは、あいつがスパイを使っていることだ。|誰《だれ》かがあいつにおれたちのことを密告したのだ」  影村の|叱《しっ》|責《せき》から放免された直後、新納はそう言って|唾《つば》を吐いた。  加藤文太郎と新納友明との地図遊びはその後もつづけられていた。神戸近郊の五万分の一の地図にはふたりの歩いたルートが次々と記載されていた。加藤は地図になれた。未知の地形と対面する前に、彼は地図を見ることによって或る程度その地形を想像することができた。 「光を頭に入れて考えるといいのだ、太陽の位置によって地形は全然別のように見えるものだ……」  新納が言った。地形ではなく景色がというべきところを彼がわざとそう言ったのは、それだけの意味があった。新納は色鉛筆を使って、図上の地形をかげと|日向《ひ な た》に上手に塗り分ける技術を知っていた。そうすると平面的な地図が立体的に浮き上って見えてくる。  加藤はその|真《ま》|似《ね》をしなかった。それがたいへん意味のあることだとわかっていても、白い地図を色鉛筆で塗りつぶすことを加藤は好まなかった。 「|馴《な》れてしまえば同じことだ」  加藤は強情をはった。理屈だとわかっていても加藤は地図を色で塗り分けることには|頑《がん》|固《こ》なくらい反対した。 「自分の都合のいいようにやればいいだけのことさ」  新納は地図を彩色することをそれ以上すすめようとはしなかった。 「きみたちはなにが|面《おも》|白《しろ》くて歩き廻るんだね」  加藤は友人にそう|訊《き》かれたことがあった。せっかくの日曜日だから映画でも見にいけばいいのに、|巻《まき》|脚《ぎゃ》|絆《はん》をはき、ルックザックをかついで歩き廻ってばかりいる、|彼《かれ》|等《ら》のことを友人たちは不思議な眼で|眺《なが》めていた。 「ほんとうにぼくらはなにが面白くて歩き廻るんでしょうね」  神戸近郊の山を歩きながら、加藤は新納に聞いた。 「なにもないからさ」  新納の答えは意外だった。 「あと二年もすれば研修所を卒業する。一年か二年して技手になる。それだけだ、まずおれたちのように大学を出ないものは技師にはなれない、一生、同じような設計の仕事を続けるしかない、船の一小部品を、明けても暮れても図に書いて暮すだけのことだ」  将来のことと、地図遊びとはなんの関係もないことだった。新納の回答は飛躍し過ぎていたけれど、加藤には、新納の心の奥のものがなんであるかを読み取れるような気がしてならなかった。新納にかぎらず、研修生の上級になるに従って彼等の行く先が眼の前に見えて来る。彼等に与えられた人生という直線を延長してそれに時間をきざみこめば、何年何月に月給いくらになってなんの仕事をしているかまで予想ができそうだった。 「なんにもないんだ、生きていることだってたいして意味はないんだぜ」  そんなことをいう新納の眼は病的に光って見えた。  年を越えてから新納友明はなんとなく元気がなくなった。地図遊びもしなくなった。日曜日には疲れたと言って寝ていることが多くなった。二月になって彼は風邪を引いた。風邪は彼に|執《しつ》|拗《よう》に取りついて離れなかった。新納は軽い|咳《せき》をしつづけた。夕方になると、熱が出るのか赤い顔をしてふさぎこんでいた。三月のおわりから試験が始まったが、新納はその試験準備さえ大儀そうだった。加藤は夜おそくまで勉強していた。そんなとき、加藤は、額に汗をびっしょりかいて眠っている新納の顔を見て、ぞっとするような不安にかられることがあった。新納の机の上と加藤の机の上に、それぞれ別の新聞から切り抜いて額ぶちにおさめられたアインシュタイン博士の写真があった。アインシュタイン博士の表情も暗かった。 「新納君の|身体《か ら だ》が悪いようです」  加藤は指導主任の影村のところに行って言った。 「どういうふうに悪いのだ。悪ければ悪いとなぜ本人が申し出て来ないのだ、風邪ぐらいで試験が受けられないということもあるまい」  影村は冷酷に突放して置いて、それでも帰りがけに加藤を呼びとめて、新納をすぐ嘱託医のところへ連れて行くように言った。  新納は肺結核であった。彼は荷物をまとめて、彼の故郷へ帰っていった。何人目かの犠牲者だった。それにしても新納の|落《らく》|伍《ご》はあまりにも急激だった。  その春加藤文太郎は四年生に進級した。新しい研修生を迎えた入所式の時、一年生から五年生までの代表者が、それぞれ、進級の挨拶を会社幹部の前で行う習慣になっていた。  加藤文太郎は四年生の代表として選ばれた。影村は加藤を研修所事務室に呼んでそのことを伝えてから言った。 「きさまは試験の点数かせぎだけはうまいな」  お目出とうとも、よくやったとも言わなかった。むしろ、加藤が四年の代表に選ばれたことが、憎らしくてたまらないという顔だった。加藤は四年生十八名中一番の成績であった。加藤はその栄誉を不思議なもののように思っていた。一年、二年の成績は上から五番目か六番目であった。三年になってから急に成績が上昇したのは、同室の新納友明によるものが多かった。新納は地図遊びのほかに、勉強の要領を教えた。加藤のもっとも苦手としていた実験や実務を新納が援助した。工作実習の点数が伸びたのは全く新納のおかげだった。新納と組んで実験をすれば必ず上手なレポートが書けた。新納友明は工員上りであるからそのような実務実習には精通していたのである。  新納友明の病状が悪化したという通知を、加藤が受け取ったのはその夏の終りごろであった。加藤はその手紙を持って指導主任のところに休暇を|貰《もら》いに行った。 「土曜日だけは休んでよろしい」  影村はひとことだけ言って、休暇申請願に印をおした。新納の家は青倉山のふもとにあった。姫路で|播《ばん》|但《たん》|線《せん》に乗りかえて何時間か走って新井という駅で下車し、さらに一里余も歩いた山の中の小さい村だった。暗い家の奥の部屋に、新納は骨と皮ばかりになってまだ生きていた。 「来てくれたのか加藤、もう一日君の来るのがおそかったら多分おれは生きてはいなかったろう」  新納は彼の顔を見てそんなことを言った。既にあきらめきっている顔だったが、会社の話はしきりに聞きたがっていた。話す気力はなかった。天井を向いたままで加藤の話を聞いている新納の|眼《め》はもう手の届かないほど遠くにいった人の眼であった。 「加藤、あの会社はやめた方がいいな、あの会社に影村がいるかぎり、君にとってはけっしていいことはないだろう」  加藤はいまごろになってなぜそんなことを新納がいうのかわからなかった。透きとおるように澄んだ新納の頭に将来が見えるのであろうか。 「いやおれはあの会社をやめないよ、影村がいるかぎりやめるものか」  加藤は憤然としていった。 「それでもいい……勝てばいいのだ……」  そして新納はしばらく休んでから、 「加藤、長いあいだ世話をかけたな」  その言葉が新納との事実上の|訣《けつ》|別《べつ》だった。新納はそのまま深い眠りに入り、次の日曜日の朝、加藤がまだ眠っている間に息を引き取っていた。彼の死の瞬間に居合せた家族はいなかった。  加藤は郵便局まで走っていって影村あてに電報を打って、新納の死を報じ、葬式の終るまで休暇を延長して貰うようにたのんだ。  その日のうちに返電があった。一通は新納友明に対する弔電であり、一通は加藤に対する指示であった。 「ひとまず会社へもどれ」  加藤はその電報を手にしたまま涙をこらえていた。その電報を打った影村の顔がよく見えた。彼の冷酷な心の底がその電報に描き出されていた。加藤は会社員であるかぎり、いかなることがあっても会社の方針に従わねばならないことをよく知っていた。自由はそこにはない。あるのは、会社の道具として生長しつつある自分があるだけだった。  その村はせまい谷間の底にあった。両側の山もそう高い山ではなかったが、村の中心を小川が流れており、小川にそって両側にひらけている耕地と村のたたずまいは谷間の村にふさわしいおもむきを持っていた。  加藤は会社から来た影村の電報を新納の|枕元《まくらもと》に置いて、彼に手を合わせてから、彼の家を後にした。加藤が新納の家を出てふりかえると、それを待っていたように山から霧がおりて来た。霧は、新納の霊魂を迎えに来たかのように、その手の先を器用に伸ばして、彼の家のそばの|一《いっ》|本《ぽん》|杉《すぎ》にかけた。杉は|梢《こずえ》の先から、霧の手にとらえられ、やがて、新納の生家が霧の中にかくれると、もうなにも見えなかった。霧の中から鶏の声がしたり、犬の声がした。それも人間世界のほかから聞えて来るもののようにさえ思われた。  加藤文太郎は霧の中を歩いていた。無性に悲しかった。いてもたってもおられないほど新納友明の死に腹が立った。なぜ新納は死なねばならなかったのだ。考えてもすぐ回答の得られるものではなかった。新納を死にいたらしめたのは病魔であって、会社でも、影村のせいでもないが、会社や影村が新納を死にいたらしめたように憎かった。影村を憎めばいく分か気も晴れた。  加藤は畜生め、畜生めといいながら霧の道を歩いていた。駅は意外なほどのはやさで眼の前に現われた。そこで一時間も待てば汽車は来る。しかし加藤はそこにはじっとしていなかった。彼は線路に沿った細い道を歩き出した。当てがあるわけではなかった。ただ歩きたかったのである。力いっぱい歩くと汗が出て来る。汗とともに怒りと悲しみが少しずつ放散されていくような気持だった。 (けっきょく新納は運が悪かったのだ)  それはごく平凡なあきらめ方だった。何パーセントは落伍するという予定のもとに消え去っていく者に対して、誰もが投げかける非情な弔意であった。  霧は、加藤の心と通じて、いつまでも晴れようとはしなかった。|永《えい》|劫《ごう》に|霽《は》れることのないような深い霧だった。夏のおわりだというのに秋のようにつめたい日であった。  加藤はひとりをつよく意識しながら歩いていた。木村敏夫とも別れ、また新納友明とは永久にさよならを言わねばならない運命を|呪《のろ》った。 (おれはひとりになった)  そう思うと涙が出そうになる。加藤はそれをこらえた。泣くものか泣くものかと心にいいきかせながら霧の道をどこまでも歩いて行った。おれはひとりなんだ。彼はときどきそう叫んでいた。      4  静かな揺れ方だったが、揺れはすぐにはやまなかった。風がさわさわと竹やぶを渡っていくような音が聞えた。  外山三郎は黒板に抗力という字を書き終ったままの姿勢で、じっとしていた。立っている彼にも、その地震動は感じられたのである。 「地震だ!」  誰かが叫んだ。低い声だったが、恐怖に満ちた声だった。外へ飛び出すほど大きな地震ではないけれど、静かに長くつづくその揺れは、その地震がどこに起きたとも分らないだけに無気味なものだった。その声に応ずる者はなかった。研修生たちは一様に不安な顔をしながらそのゆるやかな振動のおわるのを待っていた。十秒そこそこの揺れだったが、二分にも三分にも長く感じられた。  地震は終った。外山三郎は、持っていたチョークをそこに置くと、研修生たちの方へ向き直って、ひどく厳粛な表情をしていった。 「海へ行くなよ、つなみがあるかも知れないからな」  そして外山は、研修生たちの礼を受けると、いつものように冗談をいったり、笑いかけたりはせずに、なにか緊張した顔をして教室を出ていった。  大正十二年九月一日土曜日の正午だった。研修生たちはなんとなく浮かない顔のままで食堂へ入っていった。彼等はいつもの土曜日とは比較にならないほどもの静かに食卓についた。  第二の地震があった、前よりも小さく、周期も短かった。歩いていればおそらく気がつかないほどの揺れだったが、地震がつづいて起っていることが、彼等の不安を大きくしたようだった。 「きっと大地震がどっかにあったのだ」 「外山先生がいったようにつなみが起るかも知れない」 「どこだろうな、ひょっとすると東京かも知れないぞ」  それらの話を聞きながら、加藤文太郎はだまって飯を食べていた。彼もまたどこかに大地震が起きたに違いないと思っていた。九州か四国か関東か北陸か|或《ある》いは東北かそれらの|何《いず》れかであっても、故郷の浜坂ではないと思いたかった。遠くの海の中で起った地震かも知れない。そうだとすれば、外山三郎のいうような津波があるかも知れない。加藤は頭と骨だけになったサンマの|皿《さら》を前に置いて、この地震が日本の将来をひどく暗くするきっかけをつくるような気がしてならなかった。欧州戦争のあと、急速に不景気になっていく世相を彼はよく知っていた。彼は神戸市付近の労働組合員がのぼりを立てて市中行進をするのを何度か見ていた。各会社が|馘《かく》|首《しゅ》を始め、失業者が街にあふれていることも知っていた。  また地震があった。正午に感じた地震から数えて三つ目か四つ目であった。 「いったい日本はどうなるのだろう」  加藤はそんなことをつぶやいて、はっとした。そのことばと、地震とはなんのつながりもないことだったが、彼は地震によって感じとった不安と世の中の不安とを一つに考えていた。 「日本というよりもわれわれはどうなるのだと考えないのかね」  加藤の前の席で飯を食べていた金川義助がいった。加藤以外には聞えないように、声をおしころしていっただけになんとなく威力があった。金川も加藤と似てどちらかといえば無口の方だった。友人も少なく、こつこつと勉強する男で、成績もいつも上位にいた。青いやや神経質な顔をしていた。 「加藤、外へ出ようか」  金川は加藤にそういうと、やかんを引きよせて、うまそうにお茶を飲んだ。 「話を聞きにいかないか」  外へ出るとすぐ金川がいった。 「話?」 「そうだ、話というよりも話し合いなんだ。みんな若い|真《ま》|面《じ》|目《め》な者ばかりが集まって勉強をするのだ」 「勉強をね……」  加藤は金川の顔を見た。 (最近、主義者たちが勉強会と称してひそかに会合を開いて、新しい党員の獲得につとめている傾向が見られる。当社研修生はいかなることがあってもかかる勧誘に応じてはならない)  加藤はつい最近研修所の教室の入口にかかげられた一文をすぐ頭に浮べた。 「な、加藤、一緒にいかないかい、勉強になるぞ、おれたちの知らなかったことがいろいろと分って来るのだ」 「その勉強会はいつから始まるんだ」 「二時からだ、一緒に行こう」  金川は、加藤が時間を|訊《き》いたので、急に乗り気になっていった。 「いや、よそう、おれは山へ行くことにしているのだ」  金川は、それが加藤の|嘘《うそ》かほんとかを確かめるような眼で加藤の顔を見ていたが、それ以上勉強会へ出ようとはすすめずに、ただひとことつけ加えた。 「加藤、すまないけれど、おれがこんなこといったなんて、|誰《だれ》にもいわないでくれないか」  急に哀願に変った金川の眼を加藤は気の毒そうに見ているだけだった。返事のかわりにしきりにうなずきながら、加藤は、友人の前で嘘をいったことを悔いていた。土曜日の午後近所の山へ登ることはちょいちょいあったが、別にどうしても登らねばならないことはなかった。いわば土曜日の山登りは、日曜日の地図遊びのための足ならしのようなものであった。加藤は、やや背を丸め気味にして去っていく金川にすまないことをしたと思った。誘われるままに勉強会にいったところで、そこが主義者の集まりだとは決っていないし、たとえ、主義者の集まりだったとしたら、いったいどうだっていうのだろうか。 (主義者ってなんだ、主義者は悪人なのであろうか)  それに答えるものを、彼はなにも持っていなかったが、少なくとも、主義者といわれている人たちが単なる悪人というかたちでほうむりさられるべき人たちではないことだけは、加藤も本能的に感じ取っていた。主義者がなにものであるかは、その主義者のやっている勉強会に入ればわかることなのだ。それなのに金川の勧誘を拒絶したのは——|臆病《おくびょう》なのだとは思いたくないが、嘘までいって金川をさけたことが悔いられた。 (結局、おれはおおぜいの人の中に入って議論をやったり、理屈をこねたりすることがきらいなのだ)  加藤は部屋に帰ると、払い下げになった作業服にゲートルをつけて、壁の|釘《くぎ》にかかっている|麦《むぎ》|藁《わら》|帽《ぼう》|子《し》に手をかけた。同じような帽子が、二つ並んでいた。一つはついこの間死んだばかりの新納友明の帽子だった。  帽子を手にとってから加藤は反射的に部屋の中を|見《み》|廻《まわ》した。彼のテーブルの上のアインシュタイン博士の写真が彼を見つめていた。  加藤は乗物が|嫌《きら》いだった。同じ乗物でも船が好きなのになぜ汽車や電車やバスが嫌いなのだろうか、彼にはその理由がよく分らなかった。  おそらくそれは、まわりに人がおおぜいいるからだろう、彼自身はそのように理屈づけても、それではなぜ、人がいるところがいやなのかと尋ねられても答えられないだろうと思った。  高取山への登り坂にかかってからは、もうなにも考えなかった。彼は同じ歩調で、とっとと坂を登っていった。 (目的地につくまでは、休まないこと、立止ってもいけない、したがって歩調は、かなりゆっくりと、汗の出ないていどに歩きつづけること)  加藤は彼に歩き方の手ほどきを教えた新納友明のことを思い出しながら、高取山への道を歩いていた。高度が増すにつれて、立止って海を見おろしたいという誘惑があったが、彼はそれをおしのけながら一気に高取山の頂上の神社まで登った。  彼のその日の予定はそこまでだった。土曜日だというのに、ここへ来ている人が比較的少ないことは彼の気をよくさせた。彼は海の見えるところに腰をおろして、はじめて、腰につりさげてある|手拭《てぬぐい》で額の汗をふいた。  海の表情は静かだった。外山教官が津波があるかも知れないといったような不安はどこにも感じられなかった。すでに津波があったようにも見えなかった。少なくとも、そこから見える範囲の神戸港は眠っているように見えた。一|隻《せき》の外国船が港を出ていくところであり、その向うに淡路島がはっきりと|全《ぜん》|貌《ぼう》を見せていた。いつもなら、煙霧に|霞《かす》んでぼんやりと見えるのに、なぜ、今日はこんなによく見えるのだろうか、加藤はその異常な透明につらなる不安を感じた。やはり今日はどこかがなんとなくへんなのだ。会社の寮から、ここまで来る間もそうであって、これといってなにもないが、なにかいつもとは違う神戸がそこにあった。  加藤はそこにそうしてじっとしていることがこわくなった。不安のもとはお昼の地震だった。 「ひょっとすると浜坂が」  彼は自分のことばにはじかれたように坂を神戸の町に向ってかけおりていった。  加藤文太郎が号外の鈴の音を聞いたのは山をおりた直後だった。  関東大震災の発生とその後に起きたものは、加藤のみならず、あらゆる日本人に不安と|焦燥感《しょうそうかん》を与えた。東京は全滅した。数十万人の人が死んだ。朝鮮人の暴動が起ったなどというデマが次から次と流れこんで来た。デマだと否定するよりも、そうかもしれないと|相《あい》|槌《づち》を打つ人の方が多かった。  |甘《あま》|粕《かす》|大《たい》|尉《い》が|大杉栄《おおすぎさかえ》を殺して井戸にほうり込んだのは九月十六日であった。そのことが新聞に出た夕べの食堂で金川義助は加藤文太郎の前でサンマをつついていた。 「主義者だから殺されるのは当り前だ」  北村安春がいった。金川はそのことばを耳にするとサンマに伸ばした|箸《はし》を止めた。止めた箸の先を加藤が見詰めていた。やがてふたりはおたがいの顔をたしかめ合うように見て、なにごともなかったように箸を動かし始めた。 「こう毎日サンマじゃあやり切れないな、なんでも、大地震のある年にはサンマがすごく取れるのだそうだ」  北村安春は主義者からサンマに話題をかえ、また東京大震災に話を持ちこんでいった。  主義者たちは震災を利用して革命を起そうとしたのだそうだとか、大杉栄がその主謀者だったとか、いい加減な出たらめをしゃべりながらも、北村は眼を周囲に配ることは忘れなかった。彼のそのくだらない放言も誰がどういう気持で聞いているかを探る眼であった。北村の話は奇妙なかたちで食堂の話題の中心になっていた。ほんとにそうなのかという顔で聞いているものもあり、明らかに不満を表わして聞いているものもあった。てんから無関心を示している者はごく少数だった。その中に金川と加藤がいた。 「外に出ようか、まだまだ暑いな」  金川がいった。加藤と金川はなんとなく連れ立って外へ出るのを、北村安春の眼が追っていた。 「おい加藤、北村はスパイだぜ」  ほとんど寄りそうようにして外へ出る時金川が加藤の耳につぶやいた。スパイってことばは新納友明が生きているときに聞いたことがあった。われわれ研修生の中にはスパイがいる。新納は時折そんなことをいった。それが誰だかは分らないがいることは確かで、それを使っているのは影村一夫であることも確実だといっていた。 「なぜスパイを置く必要があるのだ」 「|彼《かれ》|等《ら》はおそれているのだ、自分の影におびえているのだ、自分の影だということが分らないからスパイを置いて密告させ自分で自分の影に|斬《き》りつけ、ついには自分自身をもきずつけてしもうことには気がついていないのだ」  金川のいったことは加藤にはよく分らなかった。しかし、金川がふと声を落して、 「加藤、うしろをふりかえるのではないぞ、そのままきみは海の方へまがれ、おれは|真《まっ》|直《す》ぐいく……」  といった言葉の意味はよく分った。誰かがうしろから尾行して来るのだ。加藤は海の方へ曲った。ひとりで夜の海を見るのもここしばらくはなかったことだった。彼は|汐《しお》|風《かぜ》に吹かれながら、|埠《ふ》|頭《とう》を歩いていた。 (このにおいを|嗅《か》ぐとおれは泳ぎたくなる)  加藤は汐のにおいにつながるかずかずの思い出と共に明滅する|漁火《いさりび》をながめながら、こんなふうに漁火がきらめく翌日はきっと天気が悪くなるのだと考えていた。 「加藤君じゃあないか」  北村安春は加藤と肩を並べて立っていながら、加藤の肩を|叩《たた》いていった。  よそよそしい空気がふたりの間を流れていた。北村がしゃべらないかぎり加藤はいつまでも黙っていた。黙っていることにかけては、誰が来ようと加藤に勝つ者はなかった。たまりかねたように北村の方から話し出した。 「加藤君、東京はたいへんらしいな、あっちこっちで主義者が|煽《せん》|動《どう》して小さな暴動が起きているそうだ」  それはさっき食堂でいったことのむしかえしだった。 「神戸の主義者も動く気配があるのだそうだ」  急に声をおとして、加藤のはな先へ口をつき出すようにしていった。サンマの口臭がした。加藤はサンマが大好きだった。サンマに限らず、魚ならなんだって好きだった。飯のおかずだけでは満足できず、浜坂から送られて来る、干魚をひまさえあれば、ぼりぼり食べていた。それほど魚が好きな加藤でも、口臭となったサンマのにおいはけっして気持のいいものではなかった。彼は顔をしかめていった。 「君は主義者かね、ずいぶんくわしく主義者のことを知っているじゃあないか」  加藤の一言は北村を沈黙させるに充分だった。彼はあきらかに虚をつかれて|狼《ろう》|狽《ばい》した。主義者の話のつづきに持ち出そうとたくらんでいたなにかが出せずに、いそいで、話をその問題からそらそうとする努力がこっけいなほど見えすいていた。北村はひとりでしゃべり、ひとりで相槌を打っていた。 「秋になると、一足とびに冬になる。いよいよ来年は五年生だな、来年の春も、おそらくきみが一番ということになるだろう。金川義助がいくら|頑《がん》|張《ば》ったってきみにはとてもかなわないからな」  加藤は北村の顔を|覗《のぞ》きあげた。暗くてよく分らないが、彼は半ばはお世辞半ばはほんきでいっているらしかった。加藤は北村のことばのなかに金川義助をつけたしのように出したのがへんだと思った。金川は成績のいい方だったが、加藤と一、二を争うほどの秀才ではなかった。北村が金川を話の|隅《すみ》の方に登場させたのは、北村が金川になにかの理由で大きな関心を示しているもののように考えられたからである。金川は北村のことをスパイといった。スパイだから、金川のことをなにかと探り出そうとしているのではなかろうか。  加藤はしきりに首をふった。 「どうしたんだ加藤、頭でもいたいのか」 「いや頭なんかいたくはないさ、ただおれはひとりでいたいんだ」  ひとりでねと北村はつぶやくようにいった。皮肉ではなく、ひとりでいたいと加藤がいい切ったことに或る種の感動と協賛を得て発したひとりごとにも思えた。 (北村もなやみはあるのだ。こいつはスパイなんて名前で呼ばれるほどいやな|奴《やつ》ではない)  加藤はそう思いたかった。 「おれはひとりで歩くのが好きなんだ。ひとりで山を歩くとほんとにいい気持だぞ」 「そうだろうな、おれにも君の気持はわかる。おれたちはみんなひとりぼっちだからな、ひとりぼっちでいるのが当り前なのにひとりでいることがおそろしくなって人につきたがるのだ」 「人につく?……」  と加藤が訊きかえすと北村はいや、なんでもないんだと首をふった。それからふたりはだまりこくって、暗い道を寮に向って歩いていった。  北村安春が予言したとおり、翌年の春(大正十三年)加藤文太郎は一番の成績で五年生に進級した。 「ついこの間、入ったと思ったがもう、五年生になったのか早いもんだな」  新入生をまじえてのパーティーの席上で外山三郎が加藤にいった。加藤は黙って頭を下げた。 「なあ加藤君、そろそろ、ぼくらの山岳会に入会してくれないかね、山岳会といってもこの付近の山を歩く、ごく気安い会なんだ。きみが新納友明君と地図遊びをはじめて、神戸付近の地図を塗りつぶしていることは聞いたよ、そういうきみが入ってくれたら、われわれ神港山岳会はたいへんありがたいんだがね」  加藤はなんともいわずに、外山三郎の口元を見つめていた。同じことはもう三年も前にいわれたことなのだ。それ以来、なんどか、神港山岳会に入ろうとしたが結局、入らずにここまで来たのは、深い理由はなかった。いわば気がすすまなかっただけの話でしかない。 「どうだ、今度の日曜日にでも、おれの家へ来ないか、珍しい山の本があるぞ」  加藤はわずかに微笑の浮びかけた顔で、外山に向ってうなずいた。ふたりの会話をすぐそばで北村安春が眼を光らせながら聞いていた。  次の日曜日の午後加藤は外山三郎の家を訪問した。 「食べないかね」  外山三郎は|菓《か》|子《し》|鉢《ばち》の桜もちを加藤にすすめてから、庭ごしに見える高取山の方向をゆびさして、 「神戸の山は常緑樹が多いといっても、やはり冬と春とではぜんぜん色が違うな、どうだい加藤君、春の山の色はおどるように見えないかね」  外山は|袷《あわせ》を着ていた。 「おどるって形容はおかしいわ、ね加藤さん、もっとなんとかいい表わし方があるでしょう、たとえば|陽《ひ》のあたたかさに甘えたような緑だとか……」  みかんを盆に盛って来た外山三郎の妻の松枝がいった。  加藤はあいかわらず怒ったような顔をしたままそこに|坐《すわ》りこんでいた。顔はおこったような顔だけれど、心では、陽のあたたかさに甘えた緑という表現が、ものすごくすばらしいものだと感心していた。外山よりも、その妻の松枝のほうがはるかに教養の深いやさしいひとに思われた。加藤は桜もちに手を出した。  外山は、こちこちに固くなっている加藤文太郎を二階の書斎につれていって、|書《しょ》|棚《だな》にぎっしりと並んでいる山の本を一さつ一さつ引き出して彼に示した。 「これはエドワード・ウインパーの書いたアルプス|登《とう》|攀《はん》|記《き》、知っているね、ウインパーはマッターホルンの初登攀をやったひとだ」  外山はそんなふうに説明しながらページを繰った。レスリー・スティーブンの�ヨーロッパの遊山場�とかエミール・ジャヴェルの�或る登山者の回想�などもあり、ウインスロープ・ヤングの書いた�山登り術�があった。  加藤はその本を手に取って、|岩釘《ハーケン》の打ちこみ方や、ザイルを使っての自己確保の仕方を興味ぶかそうに|眺《なが》めていた。そばから外山が説明してやった。  加藤は、小島|烏《う》|水《すい》の�日本アルプス��山水無尽蔵�|田《た》|部《べ》重治の�日本アルプスと|秩父巡礼《ちちぶじゅんれい》�|辻村《つじむら》伊助の�スイス日記�などにもいちいち眼を通したあとで、 「日本アルプスへ一度行ってみたいな」  と加藤は、そういうことを口に出すのも恥ずかしそうにおずおずした様子でいった。 「ああ、いつだっていけるさ、山は逃げやあしない」  外山はそんな冗談をいいながら、この加藤がほんとうに日本アルプスへ出かけるようになったらと考えると、なにかおそろしいような気がした。無口で実行力のある加藤が、なによりも山が好きになり、山に情熱をもやすようになったら、たいへんなことになりはしないか。外山が加藤を山へ誘いこむのは、神港山岳会を充実させる目的以外になにものもなかった。登山家を作るためではなく、会社の中の|親《しん》|睦《ぼく》団体としての山岳会に彼のような男を迎え入れることによって、いつまでたってもハイキング趣味から脱し切れないでいる会員に新風を吹きこんで|貰《もら》いたかったのである。  加藤文太郎は雑誌�山岳�に手をのばした。 「この雑誌は古くからあるんですか」 「明治三十九年からずっとあるんだ」  加藤はうなずきながら、その一冊を手に取って開いた。大正十年の夏、|槇《まき》|有《あり》|恒《つね》がアイガーの東|山稜《さんりょう》初登攀成功によって、日本でも本格的岩登りが始められた。関東では慶応大学及び学習院が中心となり、関西では藤沢久造が中心となって|芦《あし》|屋《や》付近の岩場で岩登り技術の研究を始めたことが書いてあった。  加藤はそのページを見つめたまま、しばらく動かなかった。 「岩登りに入る前には、まず山というものを完全に理解しなければならない」  外山は加藤が岩登りに相当な関心を示したものと見ていった。 「日本の登山も進歩しつつあるんですね」  加藤は本を閉じるとそういった。それが山の本を見せて貰った結論だった。 「そうだ、かなり進歩している。しかし外国の進歩はもっと早い、ぐずぐずしているとヒマラヤの山々は全部、外国人たちにしてやられてしまうかもしれない」 「ヒマラヤですか……」  加藤は彼と縁のない国のことのようにつぶやいただけで、それ以上は、もう山のことからいっさいの興味を失ったかのように、さっき、松枝夫人がいった陽のあたたかさにあまえているような色をした窓の外の新緑の山に眼をやっていた。  外山は加藤に裏切られたような気がした。加藤が山の本を見に来たことは、八分どおり、彼を山の仲間に引きずり込むことのできる証拠だと考えていたのが、そうではなく、加藤が山にはたいした感激も示さず、本から外の景色へ眼をやったのは、|未《いま》だに、加藤は山に対してさほどの関心を持っていない証拠に思われた。 「きみは山が好きなんだろう」  外山はいささかの|焦燥《しょうそう》を顔に浮べていった。 「好きです」 「それなら、神港山岳会に入ってくれないか」 「いやです」  それは加藤らしいはっきりした拒絶だった。 「いやなら、しょうがない、そのうち気がむいたら入るんだな」  外山三郎はやや、とがった声でいった。そして、彼は、この加藤文太郎という男をなんとかして神港山岳会のメンバーに加えたいと思った。こういう男こそ、山男の見本となる男なのだ。山岳会のリーダーの資格についていろいろ議論の|沸《ふっ》|騰《とう》している折から、このような男を山岳会に入れて、リーダーにしたら、神港山岳会は充実するだろう。外山三郎は気長に加藤を誘い入れるつもりでいた。 「実は先生、ぼくは山の本を見せて貰うために、こちらへうかがったのではありません」  加藤は気をつけの姿勢を取って、外山にいった。 「なにか話したいことがあるのか、それじゃあ応接間の方で聞こうか」  外山は階段をおりながら、最近、研修生の間になにかトラブルでもあったかなと考えたり、教官仲間の|噂話《うわさばなし》などを思いかえしていた。思い当ることはなにもなかった。 「先生、ぼくはなんだか不安なんです」  応接間に来ても、加藤は立ったままでいった。 「話すがいい、立っていた方が話しよければ、そのままでいうんだな、たいていのことは話してしまえばさっぱりするものだ」  外山は静かな眼を加藤に誘うように投げかけていった。 「十日ほど前、ぼくは影村さんに呼ばれていろいろ|訊《き》かれたんです」  加藤はひどく緊張した顔で話し出した。影村は研修所の事務室に加藤を呼んで、去年の東京大震災の日をおぼえているかと聞いた。 「あの日の午後君はどこへ行ったかね」 「高取山へいきました」 「ひとりかね」  はいと答える加藤の顔を影村は|詮《せん》|索《さく》するように見詰めていたが、 「なにか証拠があるかね……きみが大正十二年九月一日の午後、高取山の頂上にひとりでいたのを|誰《だれ》か見た人がいるかね、いればよし、いなければ、それが君の|嘘《うそ》だといわれても仕方がないだろう」  影村は妙にひっかかるようなことをいった。 「あの日の午後のぼくの居どころが、なぜそれほど大事なんですか」  加藤は一応いうことだけはいった。 「それをきみにいうことはできない。きみはただ、あの日の午後の居どころを正直にいえばそれですむことなのだ。きみはあの日の午後、山へは行かなかったろう」  影村の眼は|執《しつ》|拗《よう》に加藤を追った。 「いいえ、高取山へ登りました。高取山の頂上に坐って、しばらくの間、海を見ていました。外山先生がいったようにほんとうに津波が来るかどうかを見ていたことを覚えています」  それはあきらかに影村の|訊《じん》|問《もん》であった。加藤を|或《あ》る種の容疑のもとに取調べようとしている刑事の態度にも見えた。加藤は自分の顔のほてっていくのを感じていた。いかりが顔に出て来たのである。 「いったい、あなたはなぜ私にそんなことを|訊《たず》ねるんです」 「あなただと?」  影村はむっとしたような顔でいった。先生といわずにあなたといったことが影村には不愉快に思えたにちがいない。 「もう帰ってもよろしい」  影村は立上ると、ポケットから|鍵《かぎ》の束を出してテーブルの引出しに鍵をかけた。 「それだけのことなんですが、影村さんがなぜそんなことをぼくに訊ねたかを考えると心配なんです」  加藤は外山三郎にいっさいをぶちまけると、肩のあたりから力を抜いた。 「ぼくにもなぜ影村技師がそんなことをしたかよく分らないな、全然見当もつかないんだ。彼は研修所の指導主任という職責上、いろいろと気にかかることもあるのだろう、それだけですんだから、それだけのことなんだ、なにもなかったと同じじゃあないか」  しかし、外山三郎の顔にはわずかながら動揺がみとめられないでもなかった。関東大震災と同時に、全国の警察署がひどく神経質になって主義者狩りを始めたことを外山は知っていた。影村が加藤を調べたのは、|或《ある》いはそういうこととなんらかのつながりがあるのかも知れなかった。 「いったいどうしたらいいのでしょうか」  加藤は不安そうな顔でいった。 「なにが?」 「会社は大量の首切りをやるそうじゃあありませんか、研修生だって、今年の新入生は例年の半分でしょう。近いうちに、上級生の数も半分にするという噂もあるんです」  加藤はいつになく早口でいった。 「たとえ半分にされても君は残るだろう、なぜならきみは一番だし、きみのような者を|馘《く》|首《び》にしたら会社は損をするからな」  すると加藤はひどくきびしい顔をして、 「冗談じゃあないです。勉強の途中でほうり出されたひとはどうなるんです、家へだって帰れないでしょう」  ほんきでつっかかって来る加藤に外山はあわてたように手をふっていった。 「冗談なんかいって悪かった、大丈夫だ、研修生の首切りなんて絶対にあり得ない、つまらないデマに迷わされずに一生懸命勉強するがいい」  外山はなだめるようにいった。  加藤が帰ろうとすると、松枝が、|桜餅《さくらもち》と、ミカンをそれぞれ別包みにして加藤に渡しながらまたあそびにいらっしゃいといった。  春だというのに加藤には、春らしい浮いた|雰《ふん》|囲《い》|気《き》はどこにも感じられなかった。船の出入が急に減って来た神戸は全体的に、灰色に濁って見えていた。街にも、街を歩いている人にも活気がなかった。それでも、繁華街に出ると、日曜だけに人はいっぱい出ていた。放心したような眼で飾り窓を|覗《のぞ》きこんでいる男や、あるかなしかの財布をにぎりしめてでもいそうに見える、ふところ手の男もいた。  加藤はそれらの人ごみの中をあっちこっちとくぐり抜けながら、近いうちに不況の波が神港造船所にやって来たとき、彼もまた、ふところ手で、町を|彷《ほう》|徨《こう》する一人になるのかと思うとやり切れないような気がした。  三間ほどはなれたところに金川義助の後姿を発見した時、加藤はあやうく声をかけるところだった。が、それよりも驚いたことは、金川義助より一間ほどうしろに、北村安春がいることだった。ハンチングを深くかぶった北村安春は時折鋭い視線を金川義助の背に投げかけていた。 (北村は金川を尾行しているのだ)  そう感ずると、もうどうにもならないほどのいきどおりがこみあげて来た。加藤は群衆をおしわけて北村に追いつくと、 「おい北村、きさまなにをしているのだ」  北村は加藤の声にひどくびっくりしたようだったが振りかえると、 「ぶらぶら歩きさ、君は……」  なんでもない声だった。なにをとぼけやあがって、きさまはあの金川義助を尾行しているのじゃあないか、このスパイめ、そういうつもりで、金川を探したが、金川の姿はもうそこには見えなかった。      5  金川義助はひとりでいることが好きだった。寮に帰らず、食堂の|隅《すみ》で勉強していたり、放課後教室に残って本を読んでいる姿などよく見受けられた。その彼も、月一回第三土曜日の午後開かれる研修生の懇親会には、出ないわけにはいかなかった。もともとその懇親会は、目的のあるようなないような会だったから、やることもまたいい加減なものであった。一年生がひとりずつ立上って歌を歌ったり、三年生の合唱があったり、時には、盆おどりの|真《ま》|似《ね》ごとなどをみんなでやったこともあった。五年生の幹事が、懇親会のスケジュールをたてるのであるが、何年もやっていると、新鮮味が失われ、無為に時間を過してしまうような場合が多かった。教官が出席しないことが、この会の特徴だったが、そうかといって、ひどくはめをはずすようなことは行われなかった。  つまらない会ということになってはいても、毎年入って来る研修生の中には一人かふたりぐらい芸達者のものがいて、それらの人によって懇親会はあるていど維持されていたといってもいい。  金川義助は詩吟が上手だった。研修生一年の時の懇親会の席上、頼山陽の本能寺を吟じて、その才能が認められた。以来、懇親会があると彼は必ず詩吟をやらされた。一年生の時は真先にやらされたが、二年生、三年生となるにしたがってあとに|廻《まわ》され、五年生になるとその懇親会の|真《しん》|打《うち》としての重きをなしていた。指名されると、にこりともせず立上って、ちゃんと用意して来た紙片をひろげて、堂々と吟じた。研修生たちには、詩吟の上手下手の判断力はなかった。ただ、金川義助の詩吟を聞いていると、なにかしんみりさせられた。ものかなしげな節の引きまわしも、研修生たちの心をうつものがあった。極端にいえば|悲《ひ》|愴《そう》|感《かん》をむき出しにしたうたい方だった。五年生になって四カ月目の懇親会の席上、彼は|棄《き》|児《じ》|行《こう》を吟じた。今まで一度もやったことのない詩だった。それを聞いて一年生の一人が涙を流した。 「わが子捨てざれば、わが身立たず……」  と金川義助が吟ずるあたりは真にせまっていた。涙にさそわれたのは、その一年生の研修生ばかりではなかった。加藤文太郎もまた、涙にさそわれそうになったほどだった。それほど、金川義助の詩吟は人を感動させる威力を持っていながら、ひとたび、彼はその任務を果すと、集まってくる研修生の|讃《さん》|辞《じ》の眼を、かたくなと思われるほど、冷酷にはねかえして|坐《すわ》ると、いかにも|面《おも》|白《しろ》くなさそうな顔をしてそっぽを向くのが常だった。  加藤文太郎はなにか金川義助の気持が分るような気がした。もし金川義助ほど上手に詩吟を吟ずることができたならばやはり、あのような態度を取るだろうと思っていた。 「いつもながらうまいもんだな」  加藤は金川をほめた。無口のことに|於《お》いては、金川とひけを取らないほど無口な加藤が、金川にそんなことをいうのはめずらしいことだった。金川が、びくっと顔を動かした。金川には加藤の讃辞が皮肉に聞えたのである。そう思われるほど、加藤のいい方はぶっきら棒であり、彼の顔には感動がなく、むしろ皮肉と受取られそうな微笑が浮んでいた。 「こういうところで、やったところで分る者はいやあしない」  加藤のことばを|軽《けい》|蔑《べつ》と受取った金川義助は、青い神経質な表情をいよいよ固くしてそういった。加藤は自分の失敗に気がついた。そうじゃあない、おれはほんとうにほめているのだぞと、いおうとしたが、それはいえなかった。 「こういうところで|駄《だ》|目《め》なら、どういうところがいいのだ」  加藤の第二の言葉は彼の心とは正反対に妙に突っかかるようなひびきを持っていた。周囲の顔がそっちを向いた。 「おれは人に聞かせるつもりで詩吟をやっているのではない。おれは海や山に聞いて貰うために勉強しているのだ」  金川義助ははっきりいった。 「詩吟なんか勉強するところがあるのか」  なんか[#「なんか」に丸傍点]という言葉は金川に取って許しがたいものだった。 「あるかないか詩吟の道場へつれていってやろう」  ふたりの私語に対して幹事がとがめるような眼を向けた。二人は黙った。 「どうだ加藤、詩吟道場へ行くか」  懇親会が終った直後金川がいった。 「いってもいい、が、その前に、きみが海か山に向って怒鳴るのを聞きたい」  どなるだと? 金川義助はきびしい眼で加藤を|睨《にら》みつけると、 「よし、聞かせてやろう、山がいいか海がいいか、神戸にはどっちだってあるぞ」  金川義助はこうなったら、たとえ加藤の方がいやだといっても山か海へつれていって彼のほんとうの詩吟を聞かせてやるぞという剣幕だった。加藤は困惑した。金川の詩吟のうまいことは認めている。なにも海や山へ行かないでも、彼の才能については疑いもなく認めているのに、妙なふうに話がこじれてぬきさしならなくなっていることを悲しんだ。 「さあ山へ行くか海へ行くか」 「そんなにいうなら山へ行こう」  加藤は答えた。これが自分の大きな欠点の一つではないかと思った。  相手をほめているのに結果としては相手に敵対視されるのは、おそらく、自分自身のあらゆる表現が悪いのではないかと思った。 (いや、|俺《おれ》のことばづかいが悪かった。おれは心から君の詩吟のうまいことに敬服しているのだ)  そういえば、済んでしまうのにそういえない。かたくなな加藤の性格を横から|揶《や》|揄《ゆ》するかのように、 「だいぶ、面白くなったな、それではおれが、審判官として同行しようか」  北村安春がにやにやしながらいった。 「いや、ことわる、おれたちのことはおれたちで片をつける。おい金川、山へ行こう、高取山のてっぺんで君の詩吟を聞いてやろう」  加藤文太郎は|拳《こぶし》をにぎりしめていった。ことばには似ずせつない気持だった。  ふたりは無言で神戸の町を歩いていった。どこの山でもよかったが、加藤は彼の好きな高取山をえらんだ。坂道にかかったときふりかえると金川の青い顔がより一層青く見えていた。加藤は、ゆっくりゆっくり坂を登り出した。いつもの彼の登る速度の半分以下だった。そんなおそい登り方をしていても、それに追いつこうとして金川義助がせいいっぱいの努力を払っていることがよく分った。加藤は|靴《くつ》の|紐《ひも》でも結ぶような格好をして、金川義助を彼の先に立てた。それからは、ずっと気が楽になった。それにしても金川はなぜ、こんな坂道で息を切らすのだろうかと思ったりした。心臓が悪いのかも知れない。山へつれて来たことが悔いられた。金川は途中で何回か休んだ。呼吸が整わないうちに歩き出そうとする金川に、加藤はもっと休んで呼吸が安定してから歩き出すようにいった。神港造船所の寮を出て、ふたりが口を|利《き》いたのはその時が初めてだった。  頂上の神社の前の茶屋は既に店をしめていた。加藤は、神社の裏手へいって、やかんにいっぱいの水を|貰《もら》って来ると黙って金川義助にさし出した。山の峰々を越えて来るその日の最後の陽光が加藤の横顔を照らしていた。金川義助はやかんに口をつける前に加藤の顔を見た。加藤の顔には相変らず表情はなかった。いたわりの感情も見えなかったし、優越もなかった。ただ義務的に水を持って来たに過ぎないという顔だった。金川はがぶがぶ水を飲んだ。しばらくは夢中で飲んでから、まだ加藤が一口も飲んでいないのに気がついてやかんを彼に渡そうとした。加藤は首をふって、いらないといった。 「高取山へ登るのは今ごろの時間が一番いいのだぜ」  ベンチに並んで腰をおろしたとき加藤がいった。 「そうだな、まるで、天と地と海とが溶け合っていくように美しい」  金川は暮れていく海を見ながらいった。ふたりの心はそこまで来る間にすっかり通じ合っていた。加藤は金川義助の詩吟をここで聞こうなどと思ってはいないし、金川義助だって、あらたまってここで詩吟をやる気はさらになかった。ふたりは海を見おろしているだけで満足だった。  足音がした。神社から出て来た老人が、そろそろ山をおりるからやかんを返してくれといった。加藤は立上ってかしこまってお礼をいうとポケットのさいふを探した。この山のいただきでは水が貴重なことは知っていた。当然、いくらかの金を置かねばならないことは心得ていた。だが、彼も、金川義助も、いそいで寮を出て来たためにさいふを忘れていた。老人は別にいやな顔もしなかった。お金はいらないと何度もいった。 「いいえ、ただで水をいただいては悪いです。ではぼくが、神社に詩吟を納めさせていただきます」  金川はそういうとつかつかと神社の拝殿の方へ登っていった。老人もちょっと驚いたようだったが、金川のほんとうの気持が分ると、神主を呼んで来るからと、小走りに姿を消した。  金川義助は帰り支度をして出て来た神主の前で|乃《の》|木《ぎ》大将の金州城外の詩を吟じた。斜陽に立つと吟じたが、斜陽の時刻は既に過ぎて急速に夜がおとずれようとしていた。 「立派なものだ、わしは久しぶりに詩吟らしい詩吟を聞いた」  神主は金川義助をひどくほめたたえて、これからも、ちょいちょいやって来て詩吟を聞かせてくれといった。 「いいひとだな」  山の途中で神主の一行と別れてから加藤がいった。 「うんいい人だ。……それで、加藤、これからどうする」  金川がいった。 「どうするって、寮へかえるしかないだろう」  加藤は、例のぶっきらぼうな調子でいった。 「勉強会を|覗《のぞ》いて見ないか」 「詩吟の勉強か……さあ……」  加藤はちょっと考えこんだ。詩吟をやったってうまくなれるとは思わないが、やって悪いとは思わなかった。覗くぐらいなら悪くはないだろうと詩吟の方へ傾きかけた加藤の耳もとで、 「じゃあ急ごうぜ、もうすぐ七時だからな」 「寮の食事はどうする」 「あとで|支《し》|那《な》そばでも食うさ」  登るときは時間がかかったが帰りは早かった。高取山をおりて長田神社の前のあたりを通ってから、金川の足が急に速くなった。その辺は何度か来たことがあると見えて、上ったりおりたりの坂の町をさっさと歩く。詩吟道場の始まる時間を気にしていそいでいるのかと思うと、角を曲って、急にゆっくりした歩調になったりする。金川義助が、なにか他人を意識しているのではないかと加藤が気がついた時に、ふたりはせまい路地に入っていった。 「いいか、おれが先に入る。きみは、知らん顔をして行き過ぎてから、しばらくして引きかえして来て門から入るんだ、いいな」  金川は早口でそういうと、加藤とはなんの関係もないような顔で数歩先に立って歩いていって、突然、黒い|塀《へい》の家の門の中に消えた。そこに詩吟道場という小さな看板がかかげられていた。  加藤は金川の態度を不審に思った。金川にいわれたようにすること自体がなにか犯罪を犯すようでいやだった。詩吟道場という看板をかかげながら、その中でなにかよからぬことが行われているような気がした。よくよく考えて見ると高取山の頂上で金川は加藤に勉強に行かないかと誘ったが詩吟の勉強だとはいってはいない。 (|或《ある》いは主義者たちの勉強ではなかろうか)  もしそうだとすると金川義助もまた主義者ということになる。  そしてすぐ加藤は、 (そんなばかなことが……)  と彼の想像を否定した。  金川義助は無口で、人づき合いが悪い。いわばおれとよく似たような人間だが、主義者なんかではない、危険な思想なんか持った人間ではない。 (それなら、あの門を入ったらいいじゃあないか)  加藤はためらった。ためらいながら、百メートルも歩いたところで、加藤は北村安春にひょっこり出会ったのである。 「おい加藤どうした、今ごろなんでこの辺をうろうろしているんだ」  北村安春の|眼《め》はなにかを探る眼であった。加藤はいつぞや、金川のあとを尾行している北村をこのあたりでつかまえて、なにをしているのだといってやったことがあった。丁度そのときとは逆に、今度は北村に、なにをしているのだといわれたのである。いうほうには、いうだけのなにかの理由があり、いわれるほうには、なにかそこに受け身となるべき要素があった。それが加藤にはよく分らなかったが、北村になにをしているといわれた瞬間、どきっとしたことだけは確かだった。しかし、加藤は、すぐ立直った。なにも、北村安春ごときに、|訊《じん》|問《もん》を受けるようなひけめはなにも持ってはいないのだ。 「どこをどう歩こうが勝手だ。帰寮時間に間に合いさえすればどこへ行ったっていいだろう。君だって、ここをうろついているじゃあないか」  そういわれると、北村安春はへらへらと|追従笑《ついしょうわら》いをして、そう怒るなよ、加藤、寮へ帰るなら一緒に帰ろうといった。 「いやだよ、おれはいつだってひとりがいいんだ」  加藤が口をとがらしてそういうと、北村はじろじろと加藤の|身体《か ら だ》中を見廻してから、 「それじゃあどこへでもいくがいい」  口ではそういいながらも、そこを去らずに、執念ぶかく加藤のうしろ姿を見守っているのである。加藤はさらに百メートルは歩いた。速足で歩いたから汗が出た。ふりかえると北村はもういなかった。加藤は詩吟道場、主義者の勉強会、金川義助などをひとつのものに組上げた。北村安春はそのへんのことを|嗅《か》ぎつけて、このあたりを|徘《はい》|徊《かい》しているのかも知れない。その北村をスパイに使っているのは影村一夫なんだと考えると、それまで沈んでいた怒りが一度に顔に出た。加藤は赤い顔をしてふりかえると北村を探しにいった。つかまえて、|詰《きつ》|問《もん》し、場合によったらぶんなぐってやろうと思ったからである。研修生同士が会社の外でやった|喧《けん》|嘩《か》まで会社は口を出さない。  北村はどこを探してもいなかった。北村さがしをあきらめて引きかえそうとすると、その前が詩吟道場の門だった。加藤が立止ると、門の戸が細目に開けられて、金川義助の眼が加藤を呼んだ。 「どうしたおそかったじゃあないか」 「北村安春の|奴《やつ》が外をうろついている」 「なにっ、北村が」  金川の顔に恐怖の色がさした。 「きみがここに入ったのを見ていたんじゃあなかろうな」 「大丈夫だ、|誰《だれ》も見てはいなかった」  加藤がそういうと金川はほっとしたような顔をして彼の手を取って、玄関をあけ、すぐ二階へ案内していった。八畳の部屋に十人近い男女が集まっていた。頭を|丸《まる》|坊《ぼう》|主《ず》にした若い男が机を前にしてなにかしゃべっていた。加藤と金川が入って来ると、十人の眼はいっせいにそっちを見た。どの眼もなにかを恐れている不安な眼だった。金川と加藤は部屋の|隅《すみ》に|膝《ひざ》をそろえてきちんと|坐《すわ》った。丸坊主の男はひどくむずかしいことをしゃべっていた。いったいなにの勉強をしているのだろうと、男の机の上の本を見ると、それは男のいっていることとは全然関係のない詩吟の本だった。坊主頭の男はカール・マルクスの資本論の講義をしていたのである。そのことも、金川が耳打ちしてくれなければ分らなかった。 「社会集団的所有における対象となるべき私有は、労働手段と労働条件が私人のものである場合に限り許される」  坊主頭の男はそういってから顔を上げてそこに居ならぶ人たちをぐるっと|見《み》|廻《まわ》して、 「さてこれはどういうことをいっているか分りますか」  坊主頭の眼が加藤のところで止った。加藤は眼を伏せた。なんにも分らなかった。  加藤文太郎は金川義助の渡して寄こした、電気学大要と書いてある本の間にはさみこまれてある紙片を読んだ。 (今度の詩吟の勉強会は日曜日の午後二時)  加藤は紙片を丸めてポケットに入れると、例のおこったような顔で、ぺらぺらと教科書のページをめくりながら、詩吟の勉強会に引きつづいて出ようかこのままやめにしようかと考えていた。勉強会には二度出たが、二度とも、なにがなんだか分らなかった。聞いているうちに分るようになるのだと金川がいうけれど、加藤には、とても、それは無理なことのように思われた。カール・マルクスがほとんどその一生をかけて書きあげた資本論が、一度や二度で分るはずはないけれど、たとえ、十度行っても二十度行っても、おそらく、了解することは困難のように思われた。新しい知識を得たいという希望はあったが、詩吟という名を借りてのかくれた勉強会に出席していることが加藤を本能的な不安感に追いやった。彼は主義者という者を知らないが、もし、そこに集まって来る人たちが主義者だったら——いつか突然、そこに集まっている人たちに、おれたちは主義者だぞ、加藤お前も主義者になったのだぞといわれたらどうしようかと思ったりした。そこへ集まって来る人たちの顔を見ると、そんなことをいって、彼を脅迫するようには見えなかった。|彼《かれ》|等《ら》のことごとくはインテリであり知識欲が|旺《おう》|盛《せい》な人たちばかりだった。ただ彼等に共通したものはなにものかをおそれる態度だった。加藤はその眼が|嫌《きら》いだった。人の眼をおそれ、こそこそと勉強するくらいなら勉強しない方がいい。加藤自身で考えた理屈だった。  加藤はノートの端をやぶいて、 (日曜日は山へ行く、詩吟会には出られない)  そう書いてから、たんに山と書いて、|嘘《うそ》と思われたらまずいと思って、|芦《あし》|屋《や》から東六甲山へ登ると書きたした。加藤はその紙片を、電気学大要のページの間にはさんで、金川義助に渡した。  食堂で金川と眼が合っても、加藤は知らん顔をしていた。金川がとがめるような視線をときどきとばして寄こすのを知りながら、加藤は、|頑強《がんきょう》によそ見をしていた。  日曜日の朝、洗面所のところで、加藤は金川に話しかけられた。 「加藤、山よりも勉強の方が大事だぞ」  低い声だったがつきさすように鋭いものを持っていた。 「おれは、山のほうが詩吟の勉強よりも必要だと思う」 「おい、加藤、きさま、おれを裏切る気なのか」 「裏切る、裏切るってなんだ」  加藤は、なぜ金川が裏切るなどというおそろしいことばを使わねばならないのかが、分らなかった。金川の眼には憎しみといかりと悲しみがごっちゃになって燃えていた。  加藤は朝食をすませると、いつものように、古い作業服にゲートルを巻いて、すっかり色のあせてしまった帽子をかぶって、|手拭《てぬぐい》を腰につけて、寮を出た。 「加藤、ほんとうに勉強会へは出ないのか」  加藤のあとを追って来て金川義助がいった。 「出ない、出たくない。おれは山の方がいいんだ」 「そうか、どうしてもいやなら、しょうがない。だが加藤、誰にもいってくれるなよ、な、たのむ」  拝むような金川義助の眼に加藤は何度かうなずきながら、ひょっとすると、金川は、ほんとうに主義者かもしれないと思った。金川が主義者だとすれば、世間は主義者に対する見方を取りちがえていると思った。  芦屋川にそっての広い道を歩いていって、やがて住宅地をはずれて山道に入ると川のせせらぎが近くに聞えて来る。そして間もなく、せせらぎが滝の音となるあたりの|滝《たき》|壺《つぼ》のほとりにお堂がある。加藤はそこまで来て一息ついた。セミの声と滝の音とが入りまじって、なにか深山にでも入ったような気がした。加藤は滝の方を見上げたがそっちの方へはいかずに、指導標に書いてあるとおり、道を東六甲への尾根道に取った。意外なほど、荒々しい白い|肌《はだ》の露岩にまつわりつくように松が生えていた。やはり山へやって来てよかったと思った。勉強会では汗が流せないが、山では流せる。汗さえ出せばおれはごきげんになれるのだと、岩に腰をかけて汗をふきながら、左手の谷に眼をやった。  妙なことがその谷を形成する岩壁の傾斜面でなされていた。綱に人と人とがつながれて、垂直にも近いような岩壁を登ろうとしているのである。いつか外山三郎の家へ行ったとき見せて貰った外国の本に、たしかそんなような|挿《さし》|絵《え》が載っていたが、眼の前で、それを見ることは初めてだった。  加藤にはそれがきわめて異常なことに思われた。第一、岩壁は人が登るところではない。岩壁を登らないでも、その山のいただきには尾根伝いにいくらでも、行きつくことができるのに、なぜ岩壁を|攀《よ》じ登る必要があるのだろうか。しかし、その疑問はすぐ彼の頭の中でとけた。岩壁を攀じ登らなければ頂上に達することができない山だってあるのだ。そういう山へ登る準備練習として、あの岩壁を登るのだと考えればいい。第二の疑問は、一つの綱になぜ三人もの人が結ばれるかということだった。 (ひとりで攀じ登ればいいじゃあないか、ひとりで攀じ登れないようなら、やめたらいいんだ)  加藤は、三人が一本の綱につながれて、岩壁|登《とう》|攀《はん》をするということは、いかなる理由があったにしても、許すべからざることのように思えてならなかった。  だが見れば見るほどその光景は興味深いものだった。それに、時折、カーンカーンと胸のすくような金属音が聞えて来ることも、加藤をじっとさせては置かなかった。加藤はせっかく登った尾根をまたもとへ引きかえして、岩登りをやっている谷の方へ廻りこんでいった。  岩場の下はせまい砂場になっていて、そこにいる数人の人が岩壁を見上げていた。それらの人たちは、|長《なが》|靴《くつ》|下《した》を|穿《は》き皮の靴を穿いていた。茶色のチョッキを着た男がどうやら指導者らしく、岩壁登攀中の三人の男に、鋭い声で指示を与えていた。加藤の知らない外国語がつぎつぎと飛び出していた。 「そこで一服だ」  茶のチョッキの男は上に向ってそう怒鳴ると、そこにいる人たちに、 「たいしたもんだね、あの連中は、だが岩登りは|馴《な》れたころが一番あぶないんだ」  そういって、ふと近くに立っている加藤文太郎に眼をそそいだ。 「やあ、加藤君、来たのか」  加藤にそう呼びかけたのは茶のチョッキの男ではなくその男のすぐうしろにいた外山三郎だった。外山三郎もまた加藤から見ると、まるで外国人のような気取った格好をしていた。 「丁度いい、加藤君、ロッククライミングってどんなものかよく見ていくがいい。なんなら、あとで藤沢先生から手ほどきして|貰《もら》ったらいい……」  そして外山三郎は加藤の手を取るようにして、藤沢先生という人の前へつれていって紹介した。加藤は藤沢久造の名前は知っていた。 「いつかお話ししたことのある加藤君です。たのもしい男ですよ、ものすごくファイトがあるんです」  藤沢久造は微笑をうかべながら加藤を迎えて、 「ロッククライミングをやってみますか」  といった。加藤は即座に首をふった。緊張すると、加藤は、赤くなり、やがて怒ったような顔になる。 「いや、無理にロッククライミングをやる必要はない。山はまず歩くことですよ、冬でも夏でも、山が立派に歩けるようになってから、それから岩に取りつくのがいいですよ」  藤沢久造は静かな眼を加藤に向けた。加藤という少年については外山三郎からその|噂《うわさ》を聞いていた。地図を持っては、神戸付近の山や村々を歩き廻る、ものすごく足の速い少年というのが藤沢久造が得ている加藤文太郎の概念だった。 「歩くことなんですね」  加藤は藤沢久造のおだやかな眼がなにか外山三郎と通ずるものがあるような気がした。加藤は、素直な気持で、藤沢久造の前に頭をさげた。 「そうです、歩けばいいんです。そのうちにいろいろとおぼえる」 「あれもですか」  加藤は岩壁にへばりついている三人をゆびさしていった。 「いや、ロッククライミングはひとりで覚えるというわけにはいかないだろうな」  藤沢久造はチョッキのポケットから、ハーケンとカラビナを出して、それを加藤の手にわたしながら、 「たとえば、こんな道具にしても、正しい使い方はやはり指導者から教わった方がいい。独学は危険だ」  藤沢はカラビナに、ハーケンを一本かちんとはめて見せた。 「こんな道具まで使って……ロッククライミングはなんのためにやるんですか」  加藤のこの質問には、藤沢久造もかなりびっくりしたようだった。 「それはむずかしいね、なんで山登りをするのかと全く同じように、答えるのはむずかしい」 「山登りをする理由は簡単じゃないですか、それは汗を流すためなんです。山登りをしなくたって、汗を出す遊びはいっぱいあるけれど、その中で、一番私の肉体条件に適しているのが山登りだからぼくは山へ登るんです」 「汗を流す、なるほど、汗を流すために山へ登る……」  藤沢久造は加藤のいったことばを何度か口の中で繰りかえしていた。  外山三郎は、へいぜい無口な加藤が、関西きっての登山界の大だてものであり、指導者である藤沢久造の前で、なぜ山へ登るかについての議論をはじめたのを見て驚いた。やはり加藤は山にかけての大ものになる男かも知れない。その素質が藤沢久造の前でああいうことをいわせるのだ。 「汗を流すために山へ登る。そして、その汗のにおいをあびるほど|嗅《か》いでから、ロッククライミングをやるのがいいね。これはまた別な意味で心の鍛錬になる」 「いいえ、私は、これはやらないでしょう。他人といっしょでないと登れないようなところなら私は登りません。私はひとりで汗を流すために山へ行くんです。それが私の山へ行くほんとうの理由なんです」  藤沢久造はそれに対して何度も何度もうなずいてから、加藤の方へ背を向けると姿勢を正して岩壁の三人に怒鳴った。 「さあ、始めろ、始める前に、もう一度ハーケンをよく調べるんだ」  加藤はその声を、彼自身とはほど遠いところのことのように聞いていた。      6  加藤文太郎にとっては暗い|靄《もや》に閉ざされたような毎日が続いていた。暗い靄は神港造船所をおおい、神戸港をおおい、神戸の市街をおおい、そして日本全体をおおっているようにも思われた。暗い靄がなにものであるか加藤にはわからなかったが、その|陰《いん》|鬱《うつ》な気体は研修所の教室の中にも、工場の中にも、寮の中にも|瀰《び》|漫《まん》していた。なにかの折にふと、その靄の存在に気がつくと、息のつまりそうになるのも事実だった。食堂においても以前のように活発な議論もでないし笑いも起きなかった。研修生たちは、さっさと食べてさっさと引っこんでいった。 (いったいこの底知れない憂鬱はなんであろうか)  加藤はまず自分に|訊《き》いた。わからない。他人に訊いたところで、答えは得られないことはわかっている。おもてだってはなにも変ったところはないのだが、やはり、どこか、なにかが変っていた。  研修生の五年生になると教室よりも工場にいる場合の方が多かった。工員とも直接つき合うこともあった。彼等は仕事中にはものをいわないし研修生に対しては、なんとなく他人行儀であった。それでも、なかには、 「おい、うちの会社でもくび切りをやるそうじゃあないか」  などという男もいた。不況、|馘《かく》|首《しゅ》、失業などということばが|巷《ちまた》に|氾《はん》|濫《らん》していた。黒い憂鬱は失業に対するおそれであろうか。世界大戦の後、世界中が不況になやんでいた。日本にもその不況の波がおしよせて来たのだという理屈だけでは逃げ切れない黒いガス体が、加藤の身辺を取りまいているような気がしてならなかった。 「おい、なぜ日本は不景気になっていくのか知っているか」  食堂で北村安春が、下級生をつかまえて大きな声でいっていた。 「資本家と政治家があまりにも目先のことしか考えないからなんだ。だからわれわれ労働者はにがい|汁《しる》ばかり飲まされることになる」  そういわれても下級生はなんのことかわからず、ただ眼をぱちぱちしているだけだった。北村が大きな声で資本家、政治家、労働者などというのを聞いていると、歯が浮く気持だった。北村が下級生を相手に、資本家だの労働者だのということばを使い出すと、それまであっちこっちで話をしていた研修生たちが急におし黙ってしまうのもおかしなものだった。  会社で首切りが始まるという噂を加藤に知らせてくれたのは、村野孝吉だった。|小《こ》|柄《がら》だが足の速い男で運動会にはいつも一等を取っていた。足が速いように聞き耳も早く、そして比較的その情報は確かだった。十二月に入ってすぐだった。 (大量首切りの前にまずうるさい者の首を切るのだそうだ)  村野孝吉は大上段に刀をふりおろす格好を見せてから、あたりをきょろきょろ見廻して、 「研修生の中からも|誰《だれ》か犠牲が出るかも知れないぞ」  村野はそういうと、彼自身がその犠牲者にでもされたように顔をこわばらせて、 「五年も勉強したのになあ」  と投げ出すようにいった。  村野孝吉がそのニュースをどこから仕入れたかはわからなかったが、加藤にはなにかそれが事実であるように思えてならなかった。誰が犠牲になるかは想像つかなかった。研修成績の悪い者を|馘《くび》にするという方法もある。素行の悪い者を対象とするとなると——主義者ということばが加藤の頭の中に浮び上り、同時に金川義助の青い顔が見えた。  村野孝吉からそのいやなニュースを聞いた日の午後、加藤は、工場で顔を知らない工員に話しかけられた。加藤はその時、内燃機関部で試運転のテストのデータを取りおわって、それをグラフに書きこんでいる時だった。その工員は加藤の書いているグラフの誤りを指摘でもするかのように、グラフにゆびをさしながら、低い声で、 「きみの右のポケットに入れた紙を、金川義助に至急渡してくれ」  そういって、離れていった。男が去ってから、右のポケットに手をつっこむと、薬包ほどの紙片が手にふれた。その夜、加藤は金川義助にその紙片をわたした。  その翌日の朝の授業中だった。研修所事務室の給仕の少年が金川を呼びに来た。 「金川さん影村先生がお呼びです」  大きな声だった。一瞬、金川義助は|蒼《そう》|白《はく》な顔になった。なにか非常に不幸なことを予期したような顔つきだった。加藤は金川義助の死の影を見たような気さえした。机の両はじを持って立上った金川義助の手はふるえていた。それでも席を立って入口に向って歩いていくときにはもう立直っていた。金川は教室のドアーのところで、みんなに向ってぺこんと頭をさげた。金川が眼を上げたとき加藤とぴったり視線が合った。|溢《あふ》れるほど多くの感情がこめられていた。そして金川はその視線を、加藤の斜めうしろにいる北村安春に向けた。金川義助の眼はいかりに燃えていた。北村は金川の視線を受けこたえられずに下を向いた。  金川義助は二度と教室へも、寮へも|戻《もど》らなかった。金川義助の部屋には刑事がやって来て、|家《や》さがしをした。彼の部屋は閉じられたままになった。  暗い靄はやはりおりて来たのである。研修生たちはひとことも口をきかなかった。ひとりずつになって自分を防衛し、他人と関連を持たないように努力していた。 「金川義助は主義者だったそうだ。神港造船所から一度に二十三名の主義者がひっぱっていかれたそうだ」  村野孝吉が加藤に教えてくれた。 「君だってあぶないぞ」  村野孝吉がいった。金川義助と加藤文太郎との交友関係を村野はいったのである。 「警察にひっぱっていって|拷《ごう》|問《もん》にかけるのだそうだ」  村野はそんな余計なことまでいってから、だが、君は外山先生がついているから大丈夫さとつけ加えたり、 「いや、外山先生がついているから、かえって影村先生ににらまれるんだよなあ」  などとうがったようなことをいうのである。研修生は少数である。なにもかも筒ぬけに知られているのである。加藤は村野の顔を見詰めたまま黙りこくっていた。金川義助が姿を消した途端に村野が接近して来たのが、加藤には|因《いん》|縁《ねん》という言葉以上になにかの宿命を思わせた。木村敏夫は会社を去り、新納友明は死に、そして、金川義助は主義者として警察に|拉《ら》|致《ち》されていった。 (おい、村野、おれのそばへ近寄って来るとけっしていいことはないんだぞ)  加藤は村野にそういってやりたかった。木村敏夫も、新納友明も、金川義助もいい|奴《やつ》だった。するとこの村野孝吉も悪い男である|筈《はず》がない。 「加藤よ、きみ早いところ外山先生にたのんで置いた方がいいぞ」  昼食のとき食堂で、村野がいった。 「なにをたのむんだ。いったいなにをたのむ必要があるんだ」  加藤は食堂のテーブルをげんこつで|叩《たた》きながらいった。 「加藤さんいませんか、加藤文太郎さん」  声がわりしたばかりの給仕は、いやに張切ってばかでかい声をして加藤を呼んだ。 「研修生指導主任が呼んでいます。すぐ来て下さい」  研修生指導主任などとわざわざいう必要もないのに、それをいわないではいられない給仕は、いくらか紅潮した顔をして食堂の入口に立っていた。給仕は彼を動かす、なにかの権力を意識しているのである。明らかに加藤を見くだしている態度だった。 「加藤文太郎か」  加藤が研修所の事務室に入ると、影村一夫と話していた男がいきなりふりかえっていった。眼つきのよくない男だった。 「ついて来るがいい、逃げようたってもうどうにもならないんだ、おとなしく署までついて来るがいい」  加藤は、そうなることを全然予期しないでもなかった。金川義助との交友が、疑われる原因になることはありうることだったが、なんの釈明もさせずに警察へ引張っていくのは無法に思われた。  加藤は影村一夫に眼を向けた。先生、なんとかいって下さいという気持だった。影村の顔には|嫌《けん》|悪《お》に似た表情が浮んでいた。|憐《れん》|憫《びん》も同情もなかった。ふん、ざまあ見ろという、残忍な眼が|眼《がん》|窩《か》の奥で光っていた。  加藤文太郎は木の|椅《い》|子《す》に|坐《すわ》らせられたまま二時間放置された。ドアーには外から|鍵《かぎ》がかけられてあるから外へ出られなかった。前に机があり、その上に紙と鉛筆が置いてあった。おそろしく寒い部屋だった。廊下を通る人の足音がたえずしていた。時折は立止って、外から内部を|覗《のぞ》くような気配が感ぜられたが相手の顔は見えなかった。  なんのためにここへ引張って来られて、なんのために二時間も放置されているのか、加藤にはわからなかった。思い当ることといえば、詩吟道場に二度ほどいったことだった。 (やはり主義者と間違われたのだ)  おれは主義者なんかではない。おれはただ詩吟の勉強のつもりで……。  ドアーが開いて刑事が入って来た。 「どうだ素直にドロを吐くか」  刑事がいった。 「それとも、ここよりもっと|居《い》|心《ごこ》|地《ち》のいい留置場の方へ入れてやろうか」  刑事はそういいながら加藤の周辺をぐるぐる|廻《まわ》った。 「なにもかも正直に白状するんだな、そうすればできるだけ早くここから出してやる。もし|嘘《うそ》をついたり、だまっていたりすると、ひとつきでもふたつきでも、帰れないことになるんだ、よく考えてみるんだな」  刑事はそういって部屋を出ていったが、三十分もすると、今度は若い刑事とふたりづれで入って来た。 「いつ主義者の仲間に入ったのだ」  加藤の前に坐った刑事の顔は酒でも飲んだのか赤かった。顔も赤いし眼も赤くにごっていた。 「私は主義者ではありません」  加藤がいった。 「きさま嘘をつくか」  その声だけは聞えたが、あとの方がわからなかった。刑事の平手が加藤の|頬《ほお》を力いっぱいたたいたのである。加藤は痛いとは思わなかったが、自分の頬から発する音に驚いて本能的に身をかばう姿勢を取った。それが刑事に次の|打擲《ちょうちゃく》をあたえる原因をつくった。 「きさま、おれに手向う気か」  刑事の|拳《げん》|骨《こつ》が加藤の耳のあたりにとんだ。加藤は椅子からすべり落ちた。 「詩吟道場へなんどいった」  刑事は次の拳骨を用意しながらいった。 「二度行きました」 「主義者たちとなにを話したのだ」 「なにも話しません、ただ非常にむずかしい講義を聞いただけです」 「共産主義者の講義を聞いたというのだな」 「それがなんだか私にはよくわかりませんでした」  なんだこいつ、刑事はもう一度殴るかまえを見せた。若い方の刑事がその手をおさえて小声でなにかいった。 「その時の講義のことで覚えていることをなんでもいいからいってみろ、よく考えていうんだぞ」  考えようとすると刑事に殴られた耳のつけ根がずきずき痛んだ。 「いってみろ、さあいうんだ」  刑事の高い声におびやかされるように加藤はいった。 「社会集団的所有における対象となるべき私有は、労働手段と……」  そこまでいったがその先がいえなかった。 「先をいってみろ」 「覚えていません。そんなふうなむずかしいことを話していたのですが、私にはなにがなんだかさっぱりわかりませんでした」 「どうして二度でやめたのだ」 「|面《おも》|白《しろ》くなかったんです。わからない講義を聞くより山へ行った方がいいと思ったんです」  刑事はノートになにか書きつけてから、 「つまり主義者の仲間から足を洗ったというんだな。それならなぜ、レポをやったんだ」  レポといわれても加藤にはなんのことだかわからないから黙っていると、 「とぼけるな、きさまは、金川義助に手紙をとどけたおぼえがあるだろう、これでもレポはしなかったといえるか」  刑事はさらにもっと重大な|訊《じん》|問《もん》にでもとりかかるつもりか前に乗り出した。  ドアーが開いて、巡査が現われ、刑事になにか耳うちをした。刑事の顔に不満な色が浮び、そして、その色を加藤に対する|憎《ぞう》|悪《お》にかえると、 「ふん、一晩とめて置いてやろうと思ったが、きさまは運のいい奴だ」  刑事はそういうと、 「だが、気をつけるんだな。今度ばかなまねをしたら、もう許さんぞ」  刑事は黙って入口の方をゆびさした。出ていけという合図だった。きしきし音のする廊下を刑事の後についていくと、署長室の前で外山三郎が待っていた。 「さあ、おれと一緒に帰ろう」  外山三郎が加藤の肩に手を置いていった。外山が|貰《もら》い下げ運動をしてくれたのだということは、すぐ加藤にわかった。警察署長が外山の知人であることは以前に聞いて知っていた。  外山は速足で警察を出ると、 「きみのことは警察の方でもたいして問題にしてはいないが、金川義助のほうは簡単に出しては貰えそうもない」 「金川は主義者なんですか」  それに対して外山は鋭い眼つきで|応《こた》えたきりで、主義者とも、そうでないともいわずに、 「金川は向学心に富んだ少年だった……」  外山三郎は悲痛な顔をした。 「加藤、腹が減ったろう」 「いいえ」 「なにか食べたくないか」 「いいえ」 「じゃあ、ぼくの家へ行こうか、新しく来た山の本があるぞ」  加藤は首をふった。 「それもいやか、じゃあどこへ行きたいのだね」 「浜坂へ帰りたい、ぼくは浜坂の家へ帰りたい……」  加藤は|唇《くちびる》をかみしめていった。いかりと悲しみの混合した顔で、けんめいに涙をこらえながら、加藤はほんとうにそのまま故郷へ帰りたいと思った。 「もうすぐ正月が来る、その時になったら帰れるじゃあないか。それに、君はもうすぐ卒業すれば技手になれるのだぞ、立派な技術者となれるのだ、今日のことは忘れるんだ」 「忘れられるでしょうか」 「忘れるように努力すればいい、努力するのだ」  加藤はなんどかうなずいた。うなずきながら、刑事になぐられた右の耳のあたりの痛みがいよいよはげしくなるのを感じた。  加藤が寮に帰った時間はちょうど夕食の時間だった。食欲はなかったが食堂に出た。みんなに無事に帰って来た姿を見せてやりたかったのである。食堂には三十数名の研修生が飯を食べていた。|彼《かれ》|等《ら》は加藤を、恐怖の眼で迎えた。喜びの眼は一つもなく、ことごとくの眼は来ないでいい人を迎える眼だった。|安《あん》|堵《ど》の表情はどこにも見当らず、迷惑をむき出しにしながら、表面的には無関心をよそおっている顔が多かった。あきらかに彼等は加藤を避けていた。加藤にそばに来られたり、加藤に話しかけられたりするのを極度におそれている顔だった。 「加藤が帰って来たんだって」  大きな声をしてかけこんで来た村野孝吉でさえも、食堂内のつめたい空気にしばらくはたじろんだほどだった。 「よかったなあ加藤……」  村野孝吉だけは、加藤の無事帰還を心から喜んでいた。 「さあ、めしを食べよう。そして今夜は早く寝よう、忘れるんだ」  村野も外山三郎と同じようなことをいった。加藤はめしには手をつけなかった。お茶を飲んだ。やたらに|喉《のど》が乾いてしようがなかった。 「加藤、きさまの耳のあたりがひどくはれているぞ」  村野孝吉の眼にも、|殴《おう》|打《だ》のあとがはっきり見えるほどになっていた。  その夜、おそくなって加藤は熱を出した。もともと風邪気味だったのに、寒い部屋に二時間も置かれたことと、耳を殴られたこととが重ね合わさった。彼の発熱は自分でもわかるように急上昇していった。  村野が加藤の看病をした。|氷嚢《ひょうのう》を加藤の額に置いてやりながら、 「なあ加藤、がまんしろ、おれたちはやがて技手になり、技師にもなれるんだ。技師になれるのだぞ」  技師は技術者として最高の名誉である。技手から技師まで何年かかるかわからない。|生涯《しょうがい》技師になれずに終るかもわからない。しかし道は開かれているのだ。  加藤は、技師ということばを頭の中で繰りかえしているうち、いつかそのことばとは遠ざかり、浜坂の海で父がひとりで舟の|櫓《ろ》をおしている姿を|眼《ま》のあたりに見た。父はいくら呼んでも返事をしなかった。日本海の沖へ沖へと|漕《こ》ぎ出ていく父を加藤はしきりに呼んだ。  加藤が急性中耳炎で入院した日は朝から強い風が吹いていた。|風《ふう》|塵《じん》の中を病院に運ばれていく加藤を、もうひとりの加藤が見ていた。 「加藤もとうとう死んだ。あいつは火葬場へ行くんだ」  加藤の耳にそう聞えた。 「死ぬものか、おれはちゃんと生きている」  加藤はうわごとのようにいいつづけていた。入院中、村野孝吉と外山三郎がしばしば見舞いに来た。そしてたった一回だけだったが影村一夫が見舞いに来た。 「加藤、どうだね」  その影村に加藤は|顎《あご》を引いただけだった。外山や村野が来ると、ありがとうと小さな声でいう加藤が、影村にはそれをいわなかった。いう必要はないと思った。卒業までにまだ三カ月ある。その間に影村がどんないやがらせをしようとも影村に頭をさげたくはなかった。加藤は白い天井を見詰めたまま|頑強《がんきょう》におし黙っていた。  退院を許された加藤は、その足で外山三郎のいる内燃機関設計部第二課を訪れた。もう何度も来たことのある設計室である。机や人の配置は変っても、部屋に入ったときの感じは少しも前と違ってはいなかった。  設計室は白色に|溢《あふ》れていた。製図板の白さ、明るい白熱灯、そして、白い|上《うわ》|衣《ぎ》を着ている技師たちの姿、それは加藤文太郎のあこがれの場であった。いつかは、その設計室で、一つの机の前に坐り、一つの白熱灯スタンドからそそがれる光量を独占して、七つの海を航海する船の機関部を設計することが彼の理想だった。  設計室はいつものように静かだった。技師や技手たちは、設計図に向ったままで、よそ見をする者はいなかった。その部屋の中ほどの外山三郎の机のそばに|見《み》|馴《な》れない背広姿の紳士が立って外山と話していた。加藤は外山に来客と見て、引きかえそうとした。 「もう出て来ていいのか」  外山の方から声をかけてくれたから、加藤は、設計台の間を縫っていって、彼の前へ行くと、ぺこんと頭をさげて、いろいろお世話様になりましたといった。 「まだ顔色がよくないな、もう二、三日、休んだらどうかな。今のうちに|身体《か ら だ》を丈夫にして置いて、研修所を出たらうんと働いて貰わねばならないからね」  加藤は外山に黙って頭を下げ、そのそばに立っている紳士にも頭を下げて、廻れ右をした。外山三郎からそう遠くないところに、影村が坐っていることも、影村が、加藤の|挨《あい》|拶《さつ》に来たのを意識しているのもちゃんと知っていながら加藤は、影村のところへはいかなかった。 「研修生かね」  加藤が去ってから、海軍技師立木勲平が外山三郎に|訊《たず》ねた。 「そうです、五年の研修が終って来年はここへ入って来る予定になっています。研修生のなかでも、飛びぬけて優秀であり、かつ変り者なんです」  外山三郎は笑顔でそう説明した。 「変り者か、それはいい。内燃機関の技術は今のところ行きづまっている。この壁を突き破って前に進むには、変ったものの考え方や設計をしなければならない。おれは変り者大いに歓迎だな、なんという名前かね、あの男は」 「加藤文太郎、泳ぎと山歩きが得意です」  外山は自分の弟子を自慢するような口調でいった。 「加藤文太郎、立派な名前だな、大将か|元《げん》|帥《すい》になれるような名前だ。外山さん、あなたはあの男を、内燃機関の設計の大将か元帥に仕上げるんだね」  海軍技師立木勲平は外山三郎に言い残すと、|大《おお》|股《また》で設計室を出ていった。  加藤文太郎の健康は急速に|恢《かい》|復《ふく》していった。一時|痩《や》せていた身体もまた肉づきがよくなった。食欲が増した。彼は浜坂の家から送られて来る、|乾《ほ》し小魚をポケットの中にしのばせて、暇あるごとにぼりぼり食べていた。これまでにもよくやったことであった。 「乾した小魚なんかなんで|旨《うま》いんだろう」  加藤が、乾した小魚を食べるのを見て友人がそういったことがある。漁師の子として育った加藤はむしろ、そういう相手の方がおかしく思われた。農家出身の子どもたちが、芋をおやつがわりに食べるように、漁業をいとなむ家に生れた加藤が乾し小魚を好んで食べてもちっともおかしくはなかった。 「文太郎や、乾し小魚さえ毎日食べていたら人間は病気をするものではない、乾し小魚は眼をよくするし歯をよくする」  加藤の幼少の|頃《ころ》、祖母が彼にいって聞かせたことを彼はよく覚えていた。実際加藤は虫歯が一本もなかった。|小《こ》|柄《がら》ではあるが、他人には負けない体力を自負していた。日頃乾し小魚を食べていたからこそ、今度の病気にも勝てたのだとも思っていた。  乾し小魚は|噛《か》めば噛むほど味が出た。故郷の味と日本海のにおいがした。彼は寮にかえってひとりの部屋に寝そべって乾し小魚を噛みしめながら、おれはけっして孤独ではないと自分自身に言った。  大正十四年の一月を迎えた加藤は、浜坂から多量に送って来た乾し小魚でポケットをふくらませて、研修所と工場と寮との間を三角形に歩いていた。どこへも、いくつもりはなかった。村野孝吉が映画をさそいに来ても、村野以外の同級生たちが声をかけても、一緒に行動はしなかった。研修生全員の懇親会の席上にさえ彼は姿を見せなくなった。もはや、金川義助の詩吟は聞くことはできない。うっとりさせるように語尾をころがしていくあの名調子は、おそらく永久に聞けないだろうと思った。金川義助の消息は、情報屋の村野孝吉でさえ知らなかった。  北村安春が、彼の家から送って来たという乾し|柿《がき》を加藤のところへ持って来た。 「いらないよ、おれは乾し柿はだいきらいなんだ」  加藤は、卒業近くなるにしたがって、北村が急に、同級生たちのご|機《き》|嫌《げん》を取って歩くのをにがにがしい眼で|睨《にら》んでいた。  加藤は北村にかぎらず、同級生のすべてに必ずしも好感を持ってはいなかった。 (あいつ|等《ら》は、あの瞬間おれを裏切った)  刑事にぶんなぐられて帰って来た夜のことを思い出すと、いまさら彼等とつきあう気にはなれなかった。村野孝吉は別だったが、特別なかたちでの彼との交友が続くと、村野もまた、加藤の今までの友だちと同じように、加藤のもとを去らねばならないことになるかも知れない。近づいた友が必ず離れていくという現実は、加藤にとっておそるべき恐怖だった。  二月になって、加藤の地図遊びがまた始まった。土曜、日曜は例外なく神戸の|背稜《はいりょう》の山を歩き|廻《まわ》った。雨が降っても、時には、小雪が降ることがあっても、彼は山行きをやめなかった。日曜日には朝早く寮を出て、夜になると疲れ果てて帰って来る。加藤がどこの山へ出かけていったのか|誰《だれ》も知る者はなかった。  ルックザックを背負った加藤は、いっさい乗物を使わずに、寮を歩いて出て、歩いて帰って来た。加藤がナッパ服に|巻《まき》|脚《ぎゃ》|絆《はん》をつけ、鳥打帽子をかぶり、時には、毛糸の飛行帽をかぶって、|芦《あし》|屋《や》の辺や|武《む》|庫《こ》|川《がわ》のほとりをひとりで歩いているのを見掛けた者があった。  神港山岳会の中条一敏が加藤と六甲山脈縦走路で会った。中条は神港山岳会長の外山三郎にそのことを報告した。 「加藤文太郎という男は風のような男ですね」  中条が話し始めた。  神港山岳会は冬季六甲山脈縦走を計画した。縦走といっても、|須《す》|磨《ま》から|宝塚《たからづか》までの山路五十キロを一パーティーでやるのではなく、縦走路を四つに区分して、それぞれの区分に一パーティーずつを送りこんで、全縦走路をつなごうという計画だった。会長の外山三郎は|横《よこ》|須《す》|賀《か》へ出張中だったから、副会長の中条一敏が総指揮に当った。二月の第三日曜日の朝、四班はそれぞれ目的地点に向って出発した。  第一班の受持区域は塩屋から市ヶ原までであった。比較的楽なコースだったから年輩者がこのコースに参加した。この一行が加藤文太郎に追い抜かれたのは|鉄《てつ》|拐《かい》山のあたりであった。加藤は風のように近づいて来て風のように去っていった。第二班は|摩《ま》|耶《や》|山《さん》の|天《てん》|狗《ぐ》道の急登路の途中で加藤に追いぬかれた。加藤は縦走路中もっともつらい登りとされているこの傾斜面を、まるで平地を歩くような速さで、すたすたと登っていったのである。ひとりが声をかけたが加藤は返事をしなかった。  中条一敏は六甲山のいただきで加藤が防火線上を頂上に向って|真《まっ》|直《す》ぐ登って来るのを見たのである。ここを直登する者はいなかった。そういう|馬《ば》|鹿《か》げた登り方をやる|奴《やつ》は誰であろうと思って|眺《なが》めているうちに、その人影はぐんぐんと近づいて来る。休もうともしない。たたずんであたりを見廻すようなこともない。頂上に向って一定の歩調で近づいて来るその男の歩き方には威力さえ感じられた。男は六甲山のいただきに立った。彼はハンチングを取って、腰の|手拭《てぬぐい》で額の汗を|拭《ふ》きながら、海の方へちらっと眼をやった。それが加藤文太郎だった。 「おい加藤、加藤君じゃないか」  中条一敏は工場の方の係長をやっていたから、実習に来た加藤を知っていた。  中条に声をかけられた加藤はにやっと笑った。そして近づいていく中条をふり切るように、|笹《ささ》|藪《やぶ》の道へ消えた。 「その加藤の笑いが、ひとを馬鹿にした笑いなんだ。|嘲笑《ちょうしょう》といったほうがいいかも知れない。とにかくひどく|癪《しゃく》にさわる笑い方なんです」  中条がいった。 「いや、そうかも知れない、そう受取れるかも知れない。しかし加藤の笑いには、なんの悪意もないのだ。彼はもともと表情を持ち合せない男なんだ。いつも彼は怒ったような顔をしているだろう。あれが彼の普通の表情であり、そして、加藤が笑う時は、よほどの親近感を持った時なんだ。彼ははにかみ屋でもある。はにかみながら、せいいっぱいの親愛の情があの笑いになるのだ。他人には、皮肉とも|軽《けい》|蔑《べつ》とも嘲笑とも受取られる笑いになるのだ」  外山三郎の説明で中条一敏はどうやらわかったような顔をした。 「しかし、加藤は損ですね。山の中であんな笑い方をされたら、たいていのものなら腹を立てる」 「そういうな、加藤ももう子供ではない。彼もそのことを充分知っているのだ。知ってはいるがにわかに表情をかえるわけにはいかない。むしろまわりの者が理解してやらねばならない」 「できそうもないですね」  中条ははっきりいってから、 「もう、彼の山歩きは、常識を越えていますよ」 「というと」  外山三郎はさぐるような眼を中条に向けた。 「私と六甲山頂で会った加藤はその足で、石の宝殿、|譲葉《ゆずりば》峠、塩尾寺、宝塚と縦走し、宝塚から電車にも乗らずに、|和田岬《わだみさき》の会社の寮まで歩いて帰ったんです」 「冗談いっちゃあいけない」  外山は中条一敏の言葉をおしとどめた。 「須磨から宝塚まで五十キロある、夏のいい状態のときでさえ足の達者な者で十四時間はかかる。六時に須磨を出て宝塚へつくのが夜の八時だ。冬場の|霜《しも》|溶《ど》け道の悪路を一日で踏破することは不可能に近い。しかし加藤のことだからやれるかもしれない。が、宝塚から和田岬まで歩いて帰ったなどということは……、宝塚から和田岬まで歩いたら朝になる」 「そんなことは外山さんにいわれなくたって、ぼくだって知っています。しかし、その不可能と思われることを加藤はやったのです。加藤は日曜日の夜の十一時三十分に寮へ帰っています」  中条一敏はそこまで話すと、身体全体から力を抜くようにして、 「とにかくおそるべき山男ですよ、加藤文太郎という男は」  外山は大きくうなずきながら、おそるべき山男ということばをくりかえしていた。六甲縦走路はまだ完全ではない。よほど調査してないと道に迷うおそれがある。おそらく加藤は長い間、何回となく自らの足で歩き廻って、縦走路を熟知しているのであろう。それにしても、あまりにも常識はずれの加藤の山歩きを、ただ黙って見ていていいのだろうか。 「会長、あなたは加藤を神港山岳会へ入れようと思っているでしょう、もうその時期はすぎていますよ。あいつは、われわれの山岳会なんかでくすぶっている男ではありません。それに、ああいうとびはなれたのが入ることは会の統制上かんばしくありません」  中条一敏は外山三郎にだめをおすようにいった。 「もう、加藤は手のとどかないほど遠くを歩いているというのか」  外山三郎はひとりごとのようにいってからすぐ、 「いや、あれをひとりで置いてはならない、ひとりで置けば、彼はいよいよひとりになり切ってしまうのだ、それはいけない、彼にとっても日本の山岳界にとっても、それは大きな損失なんだ」 「なんですって」  中条一敏は、外山三郎が、日本の山岳界のためなどということをいきなりいい出したので、ひどくびっくりした眼で、外山三郎の顔を|覗《のぞ》きこんでいた。      7  窓の外で小鳥が鳴いていた。一|羽《わ》ではない、二羽か三羽がさえずっている声が、研修所卒業生代表として謝辞を述べようとしている加藤文太郎の耳に入った。神戸は山が近いから小鳥が多い。山手の住宅地の庭に野鳥の訪れることはめずらしいことではないが、海に近い和田岬にまで小鳥が姿を現わすことはまれであった。卒業式は会社の講堂で行われていた。講堂と隣接している庭が小鳥を呼びよせるにふさわしいほどの広さを持っているとは思われなかった。おそらく小鳥の訪れは春の陽気のせいにあるのだろう。その日は、小鳥たちが、その遊飛範囲を拡大するにふさわしいほどうららかに晴れていた。  加藤文太郎は謝辞と大きくおもて書きをしてある、包み紙を取りのぞき、折目をつけてたたみこんである紙を開いた。胸の鼓動が高まっていくのがはっきりとわかる。彼は力強い声で、読み出した。ほとんどその内容は暗記するほど頭の中に入っていたが、晴れの席でそれを読むと声が震えた。謝辞の半ばまで読んでようやく落ちつきを取り|戻《もど》していた彼はちょっと顔を上げた。前に研修所長がひどく緊張した顔で立っていた。その背後にずらっと並べられた|椅《い》|子《す》には、会社の幹部が|坐《すわ》り、やや離れたところに研修に参加した教師たちがならんでいた。卒業する十六名よりはるかに多い人がそこに坐っていた。 「無事卒業の栄に浴することができたわれわれ十六名は……」  加藤文太郎はそこまで読んで来たとき、彼の視角のはずれにいる影村一夫が、ぴくっと身体を動かしたように感じられた。加藤はその謝辞の草案を影村一夫に見せたときのことを思い出した。影村は机上からペン軸を取り上げると、 「五年前にこの講堂で行われた入所式に参加したわれわれ新入生の数は二十一名であったが現在ここに晴れの卒業免状を手にするのは十六名……」  と書いた一節を赤インキで乱暴に消してから、 「卒業生十六名だけでいい、余計なことは書くな」  影村はきびしい口調でいった。卒業生十六名中には、途中で補充入学して来た者が三名いる。従って、五年前に加藤と一緒に研修所の門をくぐって、今卒業証書を手にすることのできる者は十三名である。五年間に八名という脱落者がでたのである。  加藤は謝辞を読み終って研修所長の前に置くと一礼して席にかえった。重荷をおろしたという気持のあとから、五年間に消えていった八名の同級生の顔がつぎつぎと浮んで来る。  木村敏夫、新納友明、金川義助の三人は加藤に多くの影響を与えた友人であった。自ら研修所に見きりをつけて、出ていった木村敏夫はその後どうしたろう。刑事に手を取られて寮を出たまま二度と姿を見せない金川義助はどこにどうしているのだろうか。加藤は研修生中一番の成績を持って卒業した自分と、自分以上に実力がありながら卒業できなかった友人のことを考えると胸のつまる思いがした。 「起立、礼」  の声が聞えた。加藤ははっとなって立上って正面を向いて礼をした。卒業式は終ったのである。卒業式に引きつづいて、研修所の食堂で卒業祝賀会が催されることになっていた。卒業生と教官たちはぞろぞろと講堂を出ていった。講堂を出てすぐの廊下の窓が開け放されていた。加藤はそこで立止って、庭の方へ眼をやった。さっきから鳴いていた小鳥の姿を見たかったからである。庭の桜が散りかかっていた。小鳥の姿はみえず、白い|上《うわ》|衣《ぎ》を着た男が庭の|隅《すみ》にテーブルを持ち出して、なにか実験をやっていた。  祝宴会場にビールが用意されていた。卒業生十六名のうち三名は既に徴兵検査が終っており、あとの十三名は、ことし徴兵検査を受ける予定の者ばかりだった。祝宴にビールが出ても、少しもおかしくはない|年《とし》|頃《ごろ》の若者たちだった。  はなやかさはなかった。さすがに卒業という喜びが一般的には祝宴を明るくしてはいたが、隅々に暗いかげがうずくまっているのを見おとすことはできなかった。 「金川義助がいたら、この辺で詩吟をやるだろうなあ」  村野孝吉が、祝宴会がなんとなく気勢のあがらないのを見ていった。 「そうだ金川義助がいたら……」  加藤は突然襲われた悲しみに声をのんだ。加藤ひとりだけではなく、十六名の研修生すべての悲しみだった。陽気な顔をして、ビールを飲み、大声で話していても、|彼《かれ》|等《ら》の心の中には、八名の脱落者への同情と、彼等と同じような立場にいつ立たされるかも知れないという不安があった。社会全般の暗いかげは|業《ごう》のように彼等につきまとっていた。十六名は卒業した。しかし、その中から何名かは、不況対策の犠牲者として会社を去っていかねばならないだろう。会社を去らずとも、会社の内部にいながら、火の出るような生存競争が行われるのだ。技術者としての優秀さを認められて|抜《ばっ》|擢《てき》されるものもあるにはあるが、特別に目立つような仕事をしないかぎり、同期の研修生を抜いて昇進することはまずあり得ない。技術が同等だと仮定すれば、あとは黙って年功序列を待つか、|空《あ》いている椅子に向って上手に泳いでいくしか手はなかった。どっちみち技師になるのは容易なことではない。技手としてこつこつ働いて、退職|間《ま》|際《ぎわ》に技師になるのが、先輩たちの歩いた道だった。十六名の研修所卒業生たちは、卒業免状を手にした瞬間、彼等が老いさらばえても|尚《なお》|且《か》つ技手としての肩書きのもとに、大学出の若手技師の|頤《い》|使《し》に耐えねばならない人生を見つめていたのである。  隅の方で拍手が起った。|田《た》|窪《くぼ》健が椅子の上に立上ってしきりに手をふった。田窪という男は|剽軽者《ひょうきんもの》だった。人を笑わせることがうまく、こういうパーティーにはなくてはならない男だった。 「これより、はだか踊りをはじめます」  田窪がどなった。わあっと歓声が|湧《わ》いた。気の早いのが、田窪のズボンに手をかけた。 「はだか踊りは当世流家元北村安春君の枯れすすきでございます」  田窪がはだか踊りをやるならば、うなずけることだったが、北村安春がやるというので、みんな一瞬意外な顔をした。だが、すぐそのあとでとってつけたような喚声が上った。そろそろアルコールが廻っていたし、この際、田窪であろうが北村であろうが、かまったことはない。景気よくなにかやって欲しいという、ひやかし気分で声を上げたのである。  踊りの場があけられた。田窪の|音《おん》|頭《ど》で、祝宴とは似ても似つかぬ、枯れすすきの歌が歌い出された。すると、食堂の|賄部《まかないぶ》の方から、素裸になった北村安春が赤い布一枚をふりかざしながら踊り出て来て、枯れすすきの合唱に合わせて踊り出したのである。  テンポのおそい踊りであった。北村の持っている赤い布は、器用に動いた。あるときは、それは枯すすきになり、ある時は、船頭の持つ|竿《さお》になり、ある時は、オレになりオマエにもなった。赤い布が、種々の役目を帯びて動いている間中、その一端は、北村安春の恥部をたくみにかくそうとしているようであったが、枯れすすきの歌がいよいよ最後に近づいて来ると、北村安春は背伸びするように立上って、赤い布を延ばした。彼の|股《こ》|間《かん》の|動《どう》|勁《けい》がぴょこんぴょこんとこっけいなすずめ踊りを見せてはだか踊りは終った。  拍手が湧くなかで、加藤文太郎ひとりはにがにがしい顔をして立ちつくしていた。会場には会社の幹部がいた。第一工場長は腹をかかえて笑った。第二工場の技師長は今年の卒業生の中にはなかなか元気のある|奴《やつ》がいるじゃあないかといった。服を着て出て来る北村安春にビールをついでやる技師もいた。 「ばかな……」  加藤は口の中でつぶやいた。北村は卒業と同時に自分を売り出すことを考えていたのだ。たとえ、まっぱだかになって、男性の象徴を人前にさらけ出しても、自分を他人より先に認めて|貰《もら》いたいと考えている北村の根性がみえすいていた。加藤は宴会場に背を向けて廊下に出た。そのあとを追うように外山三郎が手を伸ばして加藤の肩をたたいていった。 「加藤君、はだか踊りをいちがいに軽蔑してはいけないぞ、あれだってなかなか勇気のいることだ。しかし君にはああいうことをけっしてすすめはしない。ぼくは君に、設計者としてのはだか踊りをいつか見せて貰いたいと思っている」 「設計者としてのはだか踊り?」  加藤は立止った。 「設計者となった場合、多かれ少なかれ、他人の|真《ま》|似《ね》ごとをするようになる。他人の真似をしないほんとうの独創的な考えはなかなか出ないものだ。きみは若い。旧来の方法にこだわらず、自由奔放な夢を製図板の上に描くことができる。従来の機械設計者たちがあっと驚くようなはだか踊り的新設計を見せることも、きみならできるのだ」  外山三郎の顔はビールのために幾分紅潮していた。それだけいうと、いつものようににっこり笑って、|瀟洒《しょうしゃ》なうしろ姿を加藤に見せながら足ばやに去っていった。  研修所を卒業すると、研修生は寮を出なければならなかった。村野孝吉が加藤に下宿を探してくれた。 「あの下宿がいやだったら、おれが入ることに決っている下宿に君が入ってもかまわないぞ、おれはどっちだっていいからな」  村野孝吉はそういってくれた。  村野孝吉の紹介してくれた下宿は池田上町にあった。加藤はその家が山手にあることで第一に気に入った。外山の家からもそう遠いところではなかった。南面に向いた二階の六畳間だった。同宿人はおらず老人夫妻と小学校に通っている孫娘がひとりいるだけだった。|賄《まかな》いつき十八円五十銭もそう高い下宿料ではなかった。  二階の雨戸をあけると、夕焼空が見えた。日はよく当りますよと|婆《ばあ》さんが加藤が聞かない前にいった。気さくな婆さんだった。加藤を案内してさっさと階段を登るところを見ていると、|身体《か ら だ》はしっかりしていた。二階は二部屋あって、となりは四畳半だったが、その部屋には、ドアーがついており、洋室づくりになっていた。その部屋を見せてくれと加藤がたのむと、婆さんはきらっと眼を光らせていった。 「この部屋はせがれの部屋ですから」 「おられるんですか」 「せがれは外国にいっているんですよ、いつかえってくるか分りませんが、帰って来るまでこうしておくんです」  婆さんは加藤の顔をさぐるように見て、下にお茶が入っていますからといった。老人はほとんど口をきかなかった。軽く|会釈《えしゃく》しただけで、加藤の前から、のがれるように奥へ入っていった。 「主人は変りものでしてね」  婆さんはそういうと、学校からかえって来たばかりの孫娘の頭をなでながら、 「この子は学校で一番成績がいいんです。とくに作文が上手でね……、美恵子ちゃんこのおにいさんに作文見せてあげなさい」  美恵子はすきとおるように青白い顔をした、眼ばかりやけに大きな子だった。美恵子はその眼で加藤の顔を穴のあくほど見つめていた。  加藤は、この家——彼が下宿しようとしている|多《た》|幡《ばた》新吉の家に暗いものを感じた。日当りはいい、家人は悪い人ではなさそうである。同宿人はいない。加藤は彼をじっと見つめている美恵子の青い顔だけが気になった。  加藤はさめかけているお茶をごくりとのんで立上った。加藤が黙って立上ったのを見て、加藤がここに下宿することを|嫌《きら》ったのだと見てとった婆さんは一瞬、固くなった顔に|強《し》いて微笑をつくろうとした。その顔が醜くゆがんだ。 「おばあちゃん、このおにいちゃん二階へ来ることになったの」  美恵子が|訊《き》いた。 「いいえ、まだそうとはきまっていないのよ」  婆さんは孫娘をなだめるようにいった。下宿人を置くことによって、多幡家の家計がいくぶん助かることと、この暗い家を明るくするために新しい人が来ることを少女は望んでいるのだ。加藤は美恵子の眼の中にその願いを見てとっていた。  加藤は黙って玄関に出ていって|靴《くつ》を|穿《は》いた。そして、くるっとふりかえって、婆さんのうしろに心配そうな顔で立っている少女にいった。 「明日、荷物を持ってやって来るからね」  そして加藤は二階につづく階段に眼をやってから、彼の新居となるべき、その家の玄関を出ていった。  加藤は内燃機関設計部第二課勤務を命ぜられた。      8  はじめて貰った|俸給袋《ほうきゅうぶくろ》は加藤の上衣の内ポケットでかさこそと音を立てていた。立つときも、坐るときも、定規にそって鉛筆を滑らせるときも、俸給袋は鳴った。よくよく心を静めて聴くと、呼吸をするたびに上衣の内ポケットの俸給袋は鳴っていた。  加藤はその俸給袋を庶務係員の田口みやから受取るときは、もう十年も二十年も俸給を貰いつけている人のように、慣れた手つきで受取ると、記載事項にちらっと眼をやって、ほとんど反射的に俸給受取り簿に印をおした。はじめての俸給を受取る者の感激はどこにも認められなかった。そしてそのごくスムーズに行われていく、金銭の受け渡しについて、|誰《だれ》も興味を持って|眺《なが》める者はいなかった。加藤は、研修生活五年間、毎月一回、俸給ではないが、研修手当として若干の金を受理していた。その研修手当の金の入った袋も彼のふところで鳴ったはずだが、そのことは記憶にはなかった。はじめての俸給が内ポケットで鳴るのは、研修手当と比較しての金額が格段に多いからではなかった。金額よりも、自ら働いて得た喜びが紙袋の音となって聞えて来るのである。それにしても、その喜びをいっさい、外界に出そうとしない加藤のかたくななほど固定化された表情はむしろつめたいものにさえ見えた。  俸給は午後の二時に貰ったが、退社時刻近くになっても、まだ袋の音はやんではいなかった。俸給袋は歩いているときが一番よく鳴った。会社の廊下を歩いていて、彼のふところの俸給袋の音が、廊下を歩いている会社の人に聞かれはしないかなどと思ったりした。俸給を貰ったのは彼ばかりではなく、会社の人はことごとく、俸給袋をふところにしているのだから、どの人のふところでも袋は鳴っているはずであった。廊下で村野孝吉に会ったら、彼は加藤の耳もとでいった。 「みんなが集まって祝杯を上げようっていう話が出ているんだ。おれたちは初めての月給を貰ったんだ」  村野孝吉はふところをたたいて言った。加藤はうなずいただけだった。  上衣の内ポケットで鳴る俸給袋が気になる原因のもうひとつは、その金の処分であった。彼は頭で算術をする。下宿代十八円五十銭、昼食代九円、洋服の|月《げっ》|賦《ぷ》、月に十円、小遣十円、交通費五円、計五十二円五十銭、月給が六十円だから差引き勘定七円五十銭残ることになる。その七円五十銭はなんに使ったらよいだろうか。そんなことを想像していると、手の動きがにぶくなった。いままで感じたことのない、妙にくすぐったいうれしさが彼を落ちつけなくさせた。  退社時刻が来たらなにかしなければならないような気がしてならなかった。このまま俸給袋を持って下宿へ帰ってはいけないような気がした。そうかといって行くあてはなかった。そうなると、俸給袋をいだいたまま退社時刻に近づくことが、かえって不安だった。  退社ベルは正確に鳴った。  しばらくは課の中は静かだった。三分、五分ぐらいたつと課員は持場から離れて、それぞれ帰宅の用意をはじめた。 「加藤君、今夜はなにか予定があるかね」  課長の外山三郎が加藤の机のそばに来ていった。 「別になにもありません」 「それなら、ぼくとつき合わないかね、ぜひ君に紹介したい人がいるんだ」  といってから、 「そうそう、きみはいつか|芦《あし》|屋《や》の岩場で藤沢久造さんに会ったね。すると、別にあらたまって紹介するまでのこともないが、藤沢さんのようなベテランに山の話を聞くのもなにかとためになるだろう」  加藤はうなずいた。別に行くあてはなかった。藤沢久造にどうしても会わねばならない理由はなかったけれど、外山三郎の前で首を横にふるほどの理由もまたなかったのである。 「どうかね、加藤君、俸給をはじめて貰った気持は悪くはないだろう」  外山三郎は歩きながらいった。 「いろいろと胸算用してみるのも楽しいが結局はこれがもっともいいという使い方も見つからないものだよ。自分で働いて得た金だと思うと、そうやたらに使うわけにもいかないしね。だがそれは、最初のときだけのことで、二度目からは、足りない、足りないの連続で、とうとう、結婚まで追いこまれてしまうんだ。ぼくはね、結婚するとき、貯金がたった三十円しかなかった。あまり自慢できた話じゃあないが、ほんとうの話だよ」  そして外山三郎は、急に思いついたように立止って、 「なにか将来金が必要になるようなはっきりした目的があったら、最初の俸給から貯金していかないと|駄《だ》|目《め》だよ。たとえば毎月十円ずつ貯金するんだったら、きみは五十円の月給取りだと最初から思いこんでかからないといけない、それはなかなかむずかしいことだ」  外山三郎と加藤は三宮駅の近くで電車をおりると、赤レンガの建物の地下室に入っていった。白いテーブル掛けが加藤の眼に|真《まっ》|直《す》ぐとびこんで来た。焼き肉のにおいがする。外人が二組と、日本人が一組いるだけで、あとのテーブルはあいていた。 「さあ、加藤君……」  外山三郎が入口で突立っている加藤を誘った。一番奥のテーブルにいる藤沢久造が手をあげて合図した。  加藤は|坐《すわ》ってもじろじろとあたりを|見《み》|廻《まわ》した。身分不相応なほど豪華なレストランに見えた。こんなところへ来ていいのかと自分自身を見直した。彼は、研修所時代と全く同じ、カーキ色の作業衣を着たままだった。  藤沢は外山三郎に課長に昇進したお祝いのことばを述べてから、加藤に坐るようにいった。加藤は、ぺこりと一つ頭をさげただけだった。なんの目的でこんなところへ連れて来られたのかと考えると、また別な不安が持上って来るのである。スープが運ばれた。そして、肉が運ばれて来る。さあ遠慮なくどうぞと、藤沢久造にいわれて、加藤はナイフとフォークを取ったが、それをうまく使うことはできなかった。おそらく神戸でも一流のレストランに違いないと加藤は思った。そういうところへなぜ呼んで|御《ご》|馳《ち》|走《そう》してくれるのか分らなかった。外山三郎がそばにいてくれるからいいものの、もし相手が藤沢久造ひとりだったら、おそらく加藤は逃げだしたにちがいない。しかし、そばにいる外山三郎がいっこう平気な顔で、藤沢久造と、さかんに山の話をしながら肉を口に運んでいるのを見ると、この席が特に警戒を要するものとも思われなかった。  加藤は味のない夕食を終った。うまかったという感じはなく、石のように固い肉が腹の中にたまったような気持だった。 「加藤君、神戸ってところはいいところだね。前が海、うしろは山、神戸の町から歩いて直ぐのところに山があるんだ。岩登りをやろうと思えば、けっこう岩場もあるし、縦走で足をきたえようと思えば、それもある。信州が山に恵まれているといっても、松本から|上《かみ》|高《こう》|地《ち》に入るにはまるまる一日はかかる。信州にかぎらず、日本中どこを探したって神戸ほど、山男向きにできているところはない」  藤沢はその自説に対して外山の見解をうかがうように眼をむけてから、 「こういうところで規則的に登山の下地を作っておくことが、高い山をのぞむ者の絶対欠くべからざる条件なんだな。ぼくはね外山君、このような環境に恵まれた神戸から、やがてはヒマラヤを征服するような登山家がでることを信じているんだ。さっききみと話していたヒマラヤだって、結局のところは足で勝ち取る以外にないのだからね」  なるほどと外山三郎はいくどもうなずいてから加藤に向って、 「加藤君どうだね、ヒマラヤは」  外山三郎は微笑をまじえながら加藤に話しかけた。 「行けない山のことなんか興味はありません」  加藤はそっけなく答えた。 「行けない山だって?」  藤沢久造の眼がきらりと光った。それまでずっとおだやかな顔で外山と話していた藤沢とは別人のようだった。 「行けないのではない、行かないんだ。行かないから未征服の山がそのまま残されているのだ。八千メートル級の山だって、いくつあるのかも、ほんとうはまだ正確には分っていないんだ。まして七千メートル級の山になると、地図にない山、あっても名前のついていない山が数え切れないほどあるんだ」  藤沢久造は加藤の眼をとらえたまま更につづけた。 「行けないんじゃあない、行かないんだ。日本人はまだ誰も行こうとしないのだ、第一に登山技術の未熟、第二に遠征費用……」 「登山技術のどういうところが未熟なんでしょうか」  加藤は藤沢の眼を真直ぐ見ていった。 「今の日本は西洋の登山技術を|真《ま》|似《ね》ることにいそがしくて、それ以上のものを|創《つく》り出すことはできない。つまりまだ自信を持つまでにたちいたっていないのだ。登山の歴史と経験が浅いからやむを得ないが、少なくとも日本人の体力の限界なるものが未知数であるかぎりは、ヒマラヤに|挑戦《ちょうせん》はできない」  体力の限界……加藤文太郎は藤沢久造のいったことばを口の中で反覆してから、 「たとえば登山技術が向上したとして、遠征費用はどのくらいかかるのでしょうか」 「かけようと思えば、いくらかけても充分とはいえないだろう。しかし、一人最低に見積っても二千円ぐらいは自己負担金を用意する覚悟でないと遠征隊は出せないだろう」  加藤の顔に小さな動揺が起った。彼は二千円を彼の月給の六十円で割ってみたのである。月給をそっくりためても約三年はかかる金高だった。 「しかし、日本人の誰かによって、いつかはヒマラヤのピークが征服されることは間違いない。ぼくはそれが、そんなに遠い将来とは思っていない」  藤沢久造は最後の方を自問自答のかたちでいった。 「藤沢さん、ぼくにヒマラヤがやれますか」  それは藤沢久造にとってもそばにいる外山三郎にもまったく思いがけない質問だった。 「自分に勝つことだ。そうすればヒマラヤに勝つことができる」  藤沢久造は加藤の視線をはねかえすような鋭い眼つきでそういうと、急に顔をほころばせて、 「まだまだヒマラヤのことなど考えないでもいい。ヒマラヤを口にする前に、登らねばならない山が日本にはいっぱいあるからな」  藤沢は怒ったような顔をしている加藤の肩を|叩《たた》くと、手をあげてボーイを呼んで、支払いをはじめた。 「ぼくの分はいくらですか」  加藤が大きな声でいった。いいんだよと藤沢がいっても、外山が、加藤君こういう場合は先輩にまかせておけといっても、加藤はきかなかった。彼は|上《うわ》|衣《ぎ》の内ポケットから、今日|貰《もら》ったばかりの俸給袋を出して、ぼくの分はいくらなんです、ぼくの分はぼくが払いますといってきかなかった。藤沢は負けた。そんなにいうなら君の分は君に払って貰おうと、二円五十銭加藤から受取った。加藤は、これで、いっさいのことがけりがついたというように、気をつけの姿勢をとって藤沢と外山に頭をさげるとさっさとレストランを出ていった。 「どうもすみませんでした、なにしろ、加藤は、まだやっと世の中に出たばかりなので」  外山は藤沢久造にわびを入れた。 「いやいや、あの男はたいした|奴《やつ》だ。この前、芦屋の岩場で会った時は、汗を流すために山に登るといっていた。あのときぼくはこいつはただものではないぞと思っていたが、やはりあれはほんものだよ」 「ほんものというと」 「いわゆる登山家という奴の中には、にせものが多い。こういうおれもにせもののひとりだ。きみもけっしてほんものではない。ほんものの登山家というのは、すべてを自らの力で切り開いていく人間でなければならない。加藤文太郎といったな、あいつは。彼はそう遠くないうちに日本を代表するような登山家になるだろう」  藤沢久造は、出ていった加藤のほうを見詰めながらいった。 「あの加藤を神戸登山会のメンバーに推薦しようという人がいるんですが、どうでしょうか。彼は冬の神戸アルプスを|須《す》|磨《ま》から|宝塚《たからづか》まで一日で縦走したあげく、余力を持って宝塚から|和田岬《わだみさき》まで歩いて帰るという驚異的な実績を持っています。彼のような活動的な若手登山家を神戸登山会に入れたら、神戸登山会ばかりでなく、関西の山岳界全体が強化されることにもなると思うんですが」  外山三郎は藤沢久造の顔を見ながらいった。 「そんなことをいったのは、神戸登山会の岩沼敏雄君あたりだろう。岩沼君は関東の山岳会を意識しすぎる。関東の山岳会に対して対立感情を抱きすぎるようだ。こんなせまい日本で、関東も関西もない。関東の山岳会に対抗するための選手に加藤文太郎を仕上げようなどというけちな考えはやめた方がいい。どうだね外山君、きみの考えは? きみだって、加藤を神港山岳会に引っぱりこもうとして、結局あきらめたのは加藤をもっと広い世界に放してやろうと思ったからだろう」  藤沢久造に開き直ってそう言われると、外山は返答に窮した。 「だが、加藤を、どこの山岳会にも入れずに放って置いていいものでしょうか? やはり、どこかの山岳会に入れてしこまないと」  おいまて、と藤沢久造がいった。 「誰が加藤をしこむのかね。冬の神戸アルプスを一日で縦走して、|尚《なお》かつ宝塚から和田岬まで歩いて帰るなどという、超人的な男を誰がしこむのだね。きみたちは基礎的なものを教えるというだろう。その必要はない。基礎的な教育が必要なら、彼を、外山君の書斎へ引張っていって本を与えておけばそれでいい」 「すると、藤沢さんはどうすればいいっておっしゃるのでしょうか」  外山三郎はやや|詰《きつ》|問《もん》のかたちで聞いた。 「放っておくことだ。彼の芽を伸ばすには放っておくのが一番いい。ああいう大物は下手な先生をつけずに置いた方が、素直なかたちで伸びる。ただ、誰かが常に見守ってやっていることだけは必要だ。そうしないと、とんでもない方向に伸びていってしまわないともかぎらないからな。その|目《め》|付《つけ》|役《やく》には外山君がいい、どうやら加藤は外山君のいうことだけはきくらしいからね」  藤沢久造は葉巻に火をつけた。 「ぼくの食べた分はぼくが払いますか、どうだね外山君。すばらしい根性をたくわえた男じゃあないか。あの精神が登山家の精神なんだと思わないかね。いかなることがあっても、自分のことは自分で処理する。|偏《へん》|窟《くつ》にも思われるほど、妥協性を欠く、あの独立精神が、結局は山における人間に通ずるのだ。加藤に関するかぎり、彼が望まないかぎりは決して妙な色に染めようとしてはならない」  藤沢久造は静かに立上った。  加藤文太郎のふところの中の|俸給袋《ほうきゅうぶくろ》はもう鳴らなかった。加藤は、怒ったような顔をいくらか紅潮させたままで、|宵《よい》の町を彼の下宿の方へ歩いていた。彼の頭はヒマラヤでいっぱいだった。ヒマラヤ行きが不可能ではないと藤沢久造から教えられたとき加藤文太郎の人生観は変った。 「お帰りなさい、ごはんまだでしょう」  多幡てつは加藤の顔を|覗《のぞ》きこむようにしていった。 「食べた」  加藤は答えると、てつの方は見向きもしないで二階へ登っていった。  二円五十銭とは高い夕食を食ったものだと思った。彼の一日の|稼《かせ》ぎ高よりも上廻った食事をしたのだと思うと、ひどくばかげたことをしたように考えられた。月給を貰ったら高級料理店で思い切り上等な洋食を食べてみたいと思っていた彼が、突如として、金をおしむ気持になったことを加藤は|危《あや》ぶんだ。 (はたして、|生涯《しょうがい》の目的をヒマラヤにかけていいだろうか)  あらゆるものを、場合によっては、青春さえも犠牲にしてヒマラヤをのぞむことが、意義あることだろうか。加藤は机の前に坐ったまま考えつづけた。加藤はヒマラヤを知らない。ヒマラヤの写真は、いつか外山三郎の家で見せて貰った。その山が彼の頭の中で際限もなく拡大されていった。ふり仰いでも、いただきは見えないほどに高い。彼はためいきをついた。  彼は机上の鉛筆を取って、紙の上にヒマラヤという字を書いた。頭の中のヒマラヤを字としてそこに書くと、ヒマラヤはやはり、彼とは関係のない外国の山に思えてならなかった。加藤は、ヒマラヤの字を憎んだ。彼と関係のないヒマラヤがこうまで彼をとらえて放さないことにいきどおりを感じたのである。ヒマラヤという字は無限に書けた、またたく間にレターペーパーの一枚はヒマラヤで一ぱいになり、二枚目も三枚目もヒマラヤで満たされていった。レターペーパーの最後のページが残った。そこに加藤文太郎は数行の文字を書いた。 [#ここから2字下げ] 和田岬まで歩いて通う 洋服なんかいらない 交際費は使わない 下宿代、昼食代、小遣銭—— [#ここで字下げ終わり]  彼はその四行を書いてから、下宿代、昼食代、所要小遣銭を頭の中で加算して、その合計を月給の六十円から差引くと二十二円五十銭のおつりが出た。  加藤は彼の俸給袋の中から二十二円五十銭を取り出して、ヒマラヤの落書きでいっぱいになった紙片に包んでから更に、レターペーパーの余白で、こまかい計算を始めたのである。もし毎月二十二円五十銭ずつ積み立てていったら十年かからずとも、二千円の貯金はできる。そのことがヒマラヤへ行くこととつながるならば、ヒマラヤは夢でなくなるのだ。  加藤は鉛筆を置いた。頭の中は整然としていた。いよいよ|繭《まゆ》を作る段階に入った蚕のように、自分の頭の|芯《しん》まですきとおって見えるような気がした。すきとおった頭をとおして、ヒマラヤが見えた。  翌朝加藤は前日より一時間早く下宿を出た。和田岬まで歩いていくつもりだった。彼の足で一時間はかからなかったが、最初だったから、もっとも通勤に便利な道を選ぶためにそれだけの時間をかけたのである。その日の昼食休みに村野孝吉が洋服屋をつれて加藤のところへやって来た。既に村野孝吉は仕立ておろしの紺の背広を着こんでいた。 「どうだい、似合うだろう」  村野は加藤に彼の洋服を見せびらかしてから、洋服屋を紹介した。薄い|口唇《くちびる》をして、金縁の眼鏡をかけた洋服屋だった。ぺらぺらと一方的によくしゃべる男だった。加藤が、作るとも作らないともいわないうちに、見本を出して、これがいい、こっちがお似合いですなどといった。 「おれは五カ月|月《げっ》|賦《ぷ》にしたよ」  と村野孝吉はいった。 「おれは月賦なんかいやだ」  加藤文太郎は、洋服屋の顔を敵の顔でも見るような眼で|睨《にら》みつけていった。 「全額お支払いいただけましたら一割はお引きいたします」  洋服屋は腰をまげた。 「洋服が買えるだけの金がたまったら買うよ」  加藤はそれ以上洋服屋の相手になろうとはしなかった。洋服屋が帰ってから、村野孝吉がいった。 「きみ、どこか洋服屋のあてがあったのか。どうもすまなかったな」  村野はさしでがましいことをしてしまったという顔で頭をかいた。 「いや洋服屋のあてはないんだ」 「じゃあ、きみ……」 「きみたちは新しい背広を作ればいいだろう。おれは当分このナッパ服で通勤する。おれにはこの服がほんとうに気に入ったのだ」 「だが加藤それじゃあ——」 「神港造船所の技手になったんだからそれらしい服装をしろっていうのだろう、ぼくは服装なんかどうだっていいんだ。現に造船所に働いている半分ぐらいの人は、この服を着て通勤しているじゃあないか」  村野孝吉は何度も頭を下げた。村野は人を疑う男ではなかった。技手になったからすぐ洋服を着て、工員たちに見せびらかそうとする、あさはかな魂胆をこっぴどく加藤に指摘されたような気がした。いかにも技手になった。だが仕事はまだなんにもできないのだぞ、と加藤に面と向っていわれたような気がした。 「やはり、きみはちがうなあ」  村野は嘆声をもらした。尊敬と|畏《い》|怖《ふ》と、ごくわずかながら|揶《や》|揄《ゆ》のひびきがこめられていた。  加藤は黙っていた。村野孝吉に悪いと思っていた。月賦で背広を買うつもりだったが、ヒマラヤという目的ができたのだから、それをしないのだとはいわなかった。加藤はヒマラヤのために貯金をするという秘密は|誰《だれ》にも話すまいと決心していた。父にも兄にも、外山三郎にさえもこれだけはいうまいと思った。誰がなんと批判しようと、ヒマラヤへ行くためには、それだけの犠牲は払わねばならないと思った。 「加藤君、同級会のことな。今度の土曜日の夜にきまったんだ。北村安春にはだかおどりをさせようとみんながいっている」  村野は話題をかえた。場所は銀水という中くらいの|料亭《りょうてい》で、会費は二円だった。 「ぼくはでないよ」  加藤はぶっきらぼうにいった。 「なぜなんだ。え、加藤なぜでないのだ」  村野孝吉は不審と不満の同居した顔でいった。 「理由はいいたくない。でたくないんだ」  村野は加藤の顔をさぐるように見詰めていたが、しばらくたっていった。 「そうか、君のきらいな北村安春が出るからだろう。な、加藤そうだろう。しかしな加藤、もうおれたちは会社員なんだぜ。いやなやつとも、時にはつき合わねばならないだろう。君の席を北村と顔を合わせないようなところに取るようにするから出ろよ」  しかし、加藤は首をふった。はげしく振って、くるっと村野に背を向けた。 「やっぱりだめか。きみは、北村安春にひどい目にあったからな。あいつに密告されて警察でぶんなぐられたうらみを、そう簡単に忘れろといっても無理だろうな——加藤、おれが悪かった。もう誘わないよ」  |悄然《しょうぜん》と去っていく村野孝吉を見送りながら、加藤は、そうではない、会に参加しないのは、二円の金がおしいからなんだよと心で|詫《わ》びていた。なにもかも、善意に受取っている村野孝吉が、いつまでも、その気持で加藤を見ていてくれるとは思われない。いつか、村野孝吉は、加藤に向ってきさまは、けちだ、友人とのつき合いもおしんで金をためてなににするのだ、というに違いない。 (その時はその時のことだ)  加藤はポケットに両手を突込んで廊下を事務室の方へ歩いていった。ヒマラヤを望むならば、|或《あ》る程度は友人との交際を犠牲にしなければならないと思った。その覚悟でないと、目的は、達成されない。彼は休み時間中でも社員のために窓口を開いている社内預金係へ行って、二十二円五十銭を貯金した。  事務室を出て空を見上げるとよく晴れていた。青い空を見ると青い海が見たくなる。彼はちらっと腕時計を見てから、海の方へいそぎ足で歩いていった。  外国船が一|隻《せき》神戸港を出ていくところだった。国籍旗は遠くで見えなかったが、なんだかその船がインドの港へ向っていくような気がしてならなかった。インドという国が加藤の頭に浮び上ったのは、インドの北にあるヒマラヤが彼の中にあったからだった。 (少なくとも、日本人の、体力の限界なるものが未知数であるかぎりは、ヒマラヤに|挑戦《ちょうせん》はできない)  藤沢久造のいったことばが思い出される。山における、日本人の体力の限界が未知数であるということは、日本人の登山が技術においても経験においても頂点に達していないことを意味していた。藤沢久造がいった未知数という抽象語の中には、かずかぎりない、日本の登山界の懸案があった。加藤にはその一つ一つは分らなかったが、日本において、|未《いま》だに開かれない分野が今尚多く残されている事実に勇気づけられていた。 (ヒマラヤを望む前に、まず日本の山に登れと藤沢さんはいっているのだ)  加藤は海の青さを見つめながら、山の上の空の青さにあこがれた。六甲山あたりをうろついていたところで、日本の山の未知数なるものを発見はできない。 (おれは日本の山のことをなにひとつとして知ってはいないのだ)  加藤は、なにか足もとに|蛇《へび》でも発見したように、飛び上ると、力いっぱい会社へ走りかえった。一時までにまだ五分あった。庶務係員の田口みやが事務机の前で本を読んでいた。 「ぼくも休暇が|貰《もら》えるんですか」  田口みやは、びっくりしたような顔をして立上ると、静かな声で、はいと答えた。 「一年に何日休暇が取れるのです。続けて休んでもいいのですか。その休暇をいつ取ってもいいのですか」  田口みやは加藤の立てつづけの質問にこまったような顔をしていた。 「ね、何日取れるんです」 「日曜祭日のほか二週間の休暇は認められています。続けてお取りになる方もございますし、ばらばらに取る方もございます。仕事の都合で、なかなか思うようにはいかないようですわ」  田口みやは低い声で答えると、さらに、休暇は二週間認められているけれど、上役の許可がないと、病気以外は勝手に休むことができないのが実情であることをつけ加えた。  その時から加藤はその二週間をいかに有効に使うかについて考えはじめていた。  その日、会社が終ると、加藤はいつになく元気な、はきはきした声で外山三郎にいった。 「ぼく、日本アルプスへでかけようと思うんです、日本アルプスのことを書いた本を貸していただけませんか」 「そうか、いよいよでかけるか。山の本ならいくらでもあるぞ、必要なときは、いつでも来るがいい」  外山三郎は期待していた日がとうとうやって来たなという顔で加藤を見ていた。 「それでいつ日本アルプスへでかけるのだね」 「夏がいいと思います。七月までに準備をととのえます」  外山三郎は何度もうなずいた。 「そうだ、高い山にはまず夏山から入らねばならない。その前に予備知識をたくわえることと、用具、服装を準備するんだな。日本アルプスと神戸アルプスとはたいへんなちがいだからな」  加藤は、はいはいと威勢よく答えながら、自分にそそがれている影村一夫の視線を感じた。課長の外山三郎から、そう遠くないところの設計台に向って、居残りの仕事をつづけている影村一夫の横顔に、かげのような笑いが走っていた。      9  バスは非常にゆれた。うっかりしていると、天井に頭をぶっつけそうにも思われるくらい、バスは悪路を白いほこりを上げて走っていた。十人ほどの乗客がいたが、ゆれるのがあたり前だという顔で黙っていた。|有《あり》|明《あけ》の駅を出て、バスはすぐ|田《たん》|圃《ぼ》の中をしばらく走るが、ひといきつく間もなく畑地帯に入り、やがて山地へ向っての|勾《こう》|配《ばい》を登りだした。  加藤文太郎は、ルックザックを足元に置いて、食いつくような|眼《め》で窓外を見ていた。生れてはじめての信州入りであり、生れてはじめての山入りの日でもあった。窓から富士山によく似た山が見えた。彼がそれまでに調べたところによると、その山は有明富士に違いないのだが、有明富士だと決めてしまうほどの自信もなかった。車掌は、景色についても、客についても無関心な顔で、時々思いついたように次の停留所の名前を呼んだ。加藤文太郎の|他《ほか》には登山者はひとりもいなかった。途中の村々で五人ほどが下車すると、あとは中房温泉へ湯治にいくらしい客だけになった。この地方の人らしく、老人を|混《まじ》えた家族で、食糧でも入っているのか大きな荷物を持っていた。  バスはやがて木のしげみの中へ入り、すぐ|渓流《けいりゅう》にそって走り出した。バスの動揺は相変らずはげしかったが、木陰に入ると、道が湿っているせいかほこりは前ほど上らなかった。バスが徐行すると、川の流れの音が聞えた。日本アルプスから流れ出して来る中房川にからむようにして上流へさかのぼっていくことが加藤にはうれしくてたまらなかった。バスは狭い道を窮屈そうに走り、上からやって来た、|幌《ほろ》をかけた自動車とのすれちがいで、何分間か時間をかけ、さらにそれから十五分も走ると終点の一の瀬だった。そこからは歩かねばならない。  茶屋があったが、そこでは休まず、加藤は大きなルックザックを背負って歩き出した。 (おれはヒマラヤへの第一歩をいま踏み出したのだ)  加藤は自分にいった。ヒマラヤへのその道は、薄暗いほど木の|繁《しげ》り合っている道であった。木陰には青い|苔《こけ》がしっとりとした色を見せているし、樹木の種類も、神戸の山や彼の故郷の山々のものとはたいへんなちがいだった。そのちがいがいったいどこにあるだろうかを加藤はまず考える。高度はそれほどではない。木の種類においても根本的な相違はない。渓流の音、これだって、そう違っているとは思えない。それならいったいなにが違うのだ。加藤文太郎は歩きながら深い|呼《い》|吸《き》をついた。 (そうだ、においが違うのだ、山のにおいが神戸の山と信州の山とでは全然違うのだ)  加藤はその相違について、それ以上の追求はしなかった。ただ、このすばらしい山のにおいを|嗅《か》いでしまったら、この信州の山々と永久に離れられない関係になるのではないかと考えていた。道は|山《やま》|峡《かい》にそって続いていた。見上げても山のいただきは見えず、永久に続くかも知れないような森林の道を登りつづけていく気持もまた楽しかった。道は川と離れたり、近づいたりしていた。川の水はかなり豊富だったが、時々見せる河原の白さもまた印象的だった。谷の幅がいくぶんか広くなり、あたりがあかるくなって来るとにわかに前方が白くひらけて、遠く犬の|哭《な》き声を聞いた。樹間をすかして見ると、紫の煙が見え、硫黄くさいにおいが鼻をついた。  中房温泉は、意外に大きな宿だった。二階建ての客室が、庭をはさんで建てられていて、廊下の|手《て》|摺《すり》にずらっと|手拭《てぬぐい》がぶら下っているところを見ると、かなりの数の|逗留客《とうりゅうきゃく》がいるものと思われた。  加藤は玄関に立った。なんていったらいいか黙って突立っていると、 「お泊りですか」  と宿の番頭がいった。そして、加藤のうなずくのを見てすぐ、 「ウエストンの泊った部屋にしましょうか、ちょうど今日あいたところだで」  とひとりごとのようにいうと、加藤のルックザックをかついでさっさとわたり廊下を歩いていった。ウエストンの泊った部屋へ案内されることはありがたいけれど、宿泊料のことが心配だった。だが、ウエストンの泊ったという部屋はけっしてそう上等なものではなかった。加藤は番頭の好意に感謝してから、明日の日程を相談して、ルックザックをそのままそこに置くと、宿の外へ出た。夕食までの時間を利用してその辺を歩き|廻《まわ》って見るつもりだった。  彼は、中房川にそって登って来る間中、一度でいいから河原におりて、その白さをたしかめて見ようと思っていたことを実行に移した。宿の裏から河原に出る道があった。ちょっとした|崖《がけ》のふちを廻りこむと、白い河原が眼の前にひろがり、河原からわざと遠慮したように向う岸近くに川が流れていた。白い河原を形成する石は|花《か》|崗《こう》|岩《がん》が多かったが、花崗岩だけにかぎらず、いろいろな種類の石が、水に洗われて光っていた。  河原に大木が横たわっていた。山の奥から押し流されて来たらしく、きれいに木の皮はむかれていた。加藤は、その河原に立って、その川の荒々しさを思った。今でこそ、その河原の|片《かた》|隅《すみ》に流れている川も、ひとたび上流に雨がふれば、この河原いっぱいにあふれ出すのだ。そして、その流れはなにものをも砕く勢いで押し出して来るに違いない。加藤は川の両側にそそりたっている斜面を見上げたが、ここからも山のいただきらしいものは、はっきりとは見られなかった。  河原の上端に白いテントが一つ張ってあった。加藤は登山用テントを見るのが、今度がはじめてではなかった。神戸周辺の山でキャンプをしている学生に会ったことは何回かあったが、中房温泉に泊らず、河原にテントを張っているのは、山の仲間に違いないと思った。加藤の眼は自然にそっちの方へ向いていった。加藤が近づいていく足音を聞いたらしく、テントの中から男たちがつぎつぎと顔を出したが、すぐ引込んでかわりに一人の男がのっそりと現われた。  加藤はその男と視線を交わした。こんちはといえばよかった。こんばんはでもよかった。やあどうもでもよかった。にっこり笑うだけでもよかった。とにかく加藤はかぶっているハンチングを取って、なんらかの|挨《あい》|拶《さつ》らしいことをやればよかったのだが、加藤は、テントから出て来た男と視線を交わした瞬間、浮べようと考えていて、既にいくらか微笑になりかけていたその表情がこわばった。彼の癖である。心では話しかけていながら、顔は心とは反対に、不可解きわまる表情——見かたによってはそれが相手に皮肉な笑いとも、卑下した笑いとも、|或《ある》いはまた|嘲笑《ちょうしょう》にも受取れる、妙に、ゆがんだまま停止した表情になったのである。  テントから出て来た男は一瞬、きっとなった。 「なにか用ですか」  テントに向って、加藤が歩を進めて来たから、テントの主人のリーダーたるべき人はそう|訊《たず》ねたのである。  加藤は答えるかわりに首を横に振った。それがまた、相手の|癇《かん》にひどく|触《さわ》ったらしかった。虚勢のように腕組みをしていた男はばらりと腕をとくと、わざと、加藤の頭からつま先まで何度も何度も|眺《なが》めまわしてから、 「どこへいくんです」  と加藤に|訊《き》いた。 「今夜は中房温泉へ泊って明日はツバメ、あさっては|槍《やり》……」 「けっこうだな」  男はそういうと、もう一度加藤の服装にじろりと眼をやってから、テントに引込んだ。テントから首だけだしていた二つ三つの顔が引っこむと、突然、テントの中で爆発したような笑いが起った。  加藤は笑い声を背に聞きながら、もと来た道を|戻《もど》っていった。加藤と顔を合わせて短いながらも言葉を交わした男は、加藤が、外山三郎から借りて読んだ本にあるような服装をしていた。ニッカズボンに|長《なが》|靴《くつ》|下《した》、皮のふちとりをしたチョッキのポケットにパイプをのぞかせているあたりは、スイスからアルピニストをつれて来たようにさえ見えた。テントの中にいる男たちもおそらく、リーダーにおとらないような服装をしているに違いなかった。  加藤は自分の服装を見た。地下たびを履き、着ふるしたズボンにゲートルを巻き、|上《うわ》|衣《ぎ》は、いつも山へ着ていくカーキ色の作業衣である。テントの中の男たちが笑った理由が、加藤の貧弱な服装にあったとしてもそのことは、加藤にとって、問題にすることではなかった。ただ加藤は、同じく、日本アルプスという山をめざして来ている山の仲間に、お前なんかここへ来る人種ではないぞと、いわんばかりにそっぽを向かれたことがたいへん悲しく思われてならなかった。  加藤は、彼らと話をしてみたかった。それができないのは、加藤自身に責任の大部分があることを加藤はよく知っていた。加藤の表情が相手の誤解を招くのである。彼の無口とあの怒ったような顔つきが、相手に警戒心と同時に反発心を起させるのだ。加藤にはそれがわかっていても、お世辞笑いはできないし、ごきげん取りのようなことばをかけることもできなかった。  加藤はその朝七時に中房温泉を出て、宿で教えられた|燕岳《つばくろだけ》への樹林の道を登っていった。木の根を踏みこえるごとに|面《おも》|白《しろ》いように高度をかせぎ取りながら、木のしげみの間から中房|渓《けい》|谷《こく》をへだてて反対側にそそり立っている山と対比して彼のかせぎ取っている高度を確かめた。谷をへだてて、自分の高位が間接的に判断できるということが、彼の過去の経験に全然なかったとはいえないけれど、いま彼が自らの足と眼で、原生林の中で発見しつつある一つの登山の法則は見事なくらいあざやかに実証されていて、ひどく彼の心をたかぶらせるものであった。面白いように足が出た。背に負った大きなルックザックも、けっして重くはなかった。むしろ彼は、これからの未知の山行に対処するため、力をセーブすることに懸命だった。森林の木々の中で、特に彼の眼を楽しませたのは、|白《しら》|樺《かば》の種族であった。その白い|肌《はだ》に加藤はしばし足をとめ、それらの木々が、ここでは、けっして素直に育っていないのを見て取り、この静かな山が、冬を迎え、雪を迎えて、いかにはげしい自然の圧迫をこうむるのかを察知した。  谷をへだてて向うの山のいただきが、やっとその形状を明らかにして来て、その山が有明富士にちがいないという確信を持ちはじめたころ、加藤は一つのパーティーに追いついた。彼らはあとから登って来る加藤に道をあけるために立止った。その先頭にきのう河原で会った男がいた。加藤は、道をゆずってくれた礼をいったが男は黙って|顎《あご》を引いただけだった。加藤が一行を追いこしてしばらくいったとき、あとからそのリーダーの声が聞えた。 「こういう坂を、無茶苦茶に急ぐのは|素人《しろうと》なんだ、いいか」  いいかというのは隊員全体にいいか分ったかと反問したのであり、素人というのは、加藤を指していることは|明瞭《めいりょう》だった。加藤は苦笑した。生れて初めて三千メートル級の山に登ろうとしているのだから、素人に間違いがなかった。傾斜が一段ときつくなり、やや明るさを増したあたりに貧弱な小屋があった。|合《かっ》|戦《せん》の小屋である。加藤はこの奇妙な名称となんの関係もなさそうな小屋を、立ったまま眺めただけで、先をいそいだ。一刻も早くその上にあるものを見たかったからであった。樹林帯の背の丈が急速にちぢまり、やがて、突然彼は|一《ひと》|叢《むら》の|這《はい》|松《まつ》を足下に見たのである。そこからはお花畑がつづいていた。もう樹林はなく、彼からそう遠くない上部に|稜線《りょうせん》があった。青空と稜線とのあざやかな交わりに眼をみはっていると、どこからともなく、霧が現われて彼の視界を閉じた。すべて未知なるものが彼の前に応接のいとまもないほど次々と現われて来るのを受け止めることはできなかった。彼は、ひねくれたダケカンバの幹の傾斜に、そのあたりの|雪崩《な だ れ》の方向を想像したり、かつて見たこともないほど美しく咲き乱れている自然のお花畑の中に、本で見たいくつかの花の存在をたしかめていた。期待したものと多くは違っていた。形態は似ていても、強烈に彼の鼻孔をついて来るお花畑からの芳香やこびりつくように触れていく山霧のつめたさは、神戸の山のものとちがっていた。霧は間もなく彼を解放した。そして、霧は二度と来る様子もなく、頭上には紺色の空があった。加藤はその空の色に日本海を思った。故郷の浜坂の城山で見た日本海の色が、ここで見る空の色だった。故郷で見た空の色も神戸で見ている空の色もこのように澄んではいなかった。海の上の空は、どこかにやわらかみがあった。青さの中に白さがとけこんだ色だったが、ここで見る空の青さは、むしろ黒色に近い感覚で読み取られた。白くとけこんだ、水蒸気のやさしさはなく、暗黒の宇宙へつづくきびしさだけが感じられた。  加藤は何度か|溜《ため》|息《いき》のようなものをもらしてから、一気に眼の前の岩稜の上に出た。  日本アルプスはそこで加藤を迎えた。見える山々のすべてが加藤よりも低姿勢で彼の到来を迎えた。谷は雲でふたをされていた。雲の上にいただきを見せている山は、また意外なほど高く望まれるのであった。  これほど多くの山が、果てしもなく続いていたことに加藤はまず眼をみはらねばならなかった。山だけの営みがかくばかり大きなスケールで存在していることが、加藤には不思議に思われてならなかった。それにしても、この美しいものと、偉大なるものに、それほど労せずして対面することができたことが加藤には意外だった。腕時計は十時を示していた。中房温泉から三時間で稜線に出られたことが|嘘《うそ》のように思えてしようがなかった。歩く時間と、歩く|難《なん》|易《い》さにおいては神戸近郊の山と大差はなかった。この道がヒマラヤへつづくものだとすれば、それはあまりにも平穏無事であり過ぎるように思われた。  |燕山荘《つばくろさんそう》には、老人がひとりでランプを|磨《みが》いていた。客はいなかった。部屋の隅にふとんが積みあげてあるけれど、せいぜい三十人ほども泊ればいっぱいになりそうな小屋だった。小さな小屋の割合に炉が広く切ってあり、大きな|鍋《なべ》の下で、太い|薪《まき》がくすぶっていた。 「燕岳までどのくらいかかりますか」 「三十分もあればいけるずらよ」  老人はランプを磨く手を休めていった。加藤はルックザックをそこにあずけて、外に出た。暗い小屋から外へ出ると、燕岳一帯の白さで眼がくらむようだった。彼は燕岳の頂上への道をいそいだ。いちいち立止って、そのへんの景色を眺めるよりも、一刻も早くこの付近の代表地点、頂上に立つことが、ここまで登って来た目的の第一であることを、胸にいい聞かせながら、白い稜線を歩いていった。燕岳は緑の這松地帯の上に白いなめらかな奇岩を擁していた。風化現象によって細く鋭く磨きあげられた白い岩群は、遠い昔からきめられた作法を維持するかのように、ひとつひとつが欠くべからざる美の要素として、どの一部を取っても、すべて絵の主題になり得るような配列をなしていた。  加藤は、矢沢米三郎、河野齢蔵共著の日本アルプス登山案内の一節を思い浮べた。 (燕岳は中房温泉の西北に在り、海抜二七六三|米《メートル》、西林道より、常緑|喬木帯《きょうぼくたい》及|潅《かん》|木《ぼく》帯を登ること三里強にして、頂上に達すべし。山頂|花《か》|崗《こう》|岩《がん》の風化によりて成れる奇岩多し。|偃《はい》|松《まつ》其間を|点《てん》|綴《てい》す。|眺望《ちょうぼう》絶佳なり。高山植物乏しからず、また|高山蝶《こうざんちょう》の飛来するを見ることあり)  加藤は眼を遠くに投げた。彼が本で読み、写真で見た山々はそこにはなく、見ず知らずの峰々が谷をふさいでいる雲海をへだてて続いていた。  加藤は燕岳の山頂に立って一望すれば、どの山がどれと、すべて、そらでいえるように勉強して来ていた。彼は胸のポケットから磁石を出して方向を定めて、静かに眼を廻していった。知識の中の山はさっぱり見当らなかったが、それらの未知の山の中でたった一つだけ傑出して、鋭い槍の穂を青空に突き出している槍ヶ岳が眼に止った。それだけは彼の知識の中の山と一致した。彼はそのすばらしく、よくとがった槍ヶ岳に、満足の眼をそそぎ、槍ヶ岳という根拠点を中心に、北アルプスのすべての山は解読できるだろうと思った。だがやはり、どの山がどれだと指名することはできなかった。彼は黒い|尖《せん》|峰《ぽう》に再び眼をそそいだ。黒い尖峰は二等辺三角形に見えた。そして、その象徴的穂先を支持している母体となる黒い峰は、その象徴を中心として、根を張り出しているように見えた。彼は足下の白い奇岩が、北アルプスを代表する岩の|面《めん》|貌《ぼう》ではなく、槍ヶ岳を中心として発するその黒い、固い、強大な、そして永遠のつながりが、北アルプスの表情でなければならないと思った。  彼は地図を出した。槍ヶ岳が分った以上、地図と対照することによって山の名は分るように考えたけれど、たいがいの山は、それらしいと思うだけで、そうだと決めることはできなかった。谷を埋めている霧も、諸峰の一部をかくしている山雲も、彼の知識と現実との密着を|疎《そ》|外《がい》させるものであった。  加藤文太郎はしばしば、槍ヶ岳から眼をはなし、そしてまた槍ヶ岳へ眼をもどした。槍ヶ岳だけが、加藤の到来を心から迎えている山に思えてならなかった。  加藤の胸の鼓動は燕岳のいただきに立ったときから鳴りつづいていた。呼吸の乱れによるものではなく、予期しないもののなかに突然飛びこんでしまった感激が彼の血を騒がしたのであった。 (山は地図で見ても分らない。本で読んでも分らない。写真でながめたものとも違う。自らの足で登り、自らの眼で確かめる以外に山を理解することはできないのだ)  加藤は、その通俗的な、山に対しての、理論が、彼のいままでの経験の中にきわめて|稀《き》|薄《はく》な存在でしかなかったことを恥じた。加藤が燕山荘に帰ると、途中で追い抜いたパーティーがちょうど小屋へついたところだった。 「はやいですねえ、もう燕岳へいって来たんですか」  パーティーのなかの一番若い男が加藤に話しかけた。 「あんまりゆっくりもできないんです」  加藤はその男に答えながら、ほかの隊員たち全部の視線が彼にそそがれているのを知った。 「すると、この小屋泊りではないんですか」  その男にかわってリーダーがいった。 「西岳小屋までいこうと思っています」  加藤はそう答えながら、ルックザックを開いて、中房温泉でこしらえて|貰《もら》った弁当の包みを出した。 「きみ、この山、初めてだろう。初めてなら、そういうことはやめたほうがいいんじゃあないかな」  リーダーがいった。 「なあに、この人の足は達者だよ。いこうと思えば、いけるさ。だが、途中で、雷様にやられたらいけねえなあ」  小屋の老人は加藤のところへ茶を運んで来ていった。 「雷?」  加藤は老人の顔を見た。 「そうだ、どうも、きょうの雲は落ちつきがねえ、おめえさま燕岳で見て来つら」  老人はいろり端に|坐《すわ》った。加藤は老人のついでくれた茶を飲みながら、小児の頭ほどのにぎりめしを一つ平らげると、老人のいう雲のことが心配になって外へ出た。別にかわったものは|見《み》|出《いだ》せなかった。  槍ヶ岳は雲の上に浮いていた。もし高瀬川の渓谷を埋める雲がなかったならば、槍ヶ岳はもっとすばらしいものに見えたに違いない。雲海は加藤が、燕山荘を出たときから静かな表情をつづけていた。雲海が山と接するところでは、山の斜面にそって|這《は》い上った雲は雲海から離別され、それぞれが形のちがったちぎれ雲となって尾根を越えていった。時にはその片雲が加藤の|頬《ほお》をぬらしたけれど、それはたんに、山の静けさを形成する一つのアクセントにしか過ぎなかった。  加藤は|蛙岩《かえるいわ》をこえるとき、雲海からのし上って来る霧に|濡《ぬ》れた。いままでの霧とはちがって濃い密度を持っていた。加藤は、その霧と、霧を吹きあげて来る強い風に異質な山を感じた。恐怖ではなかった。大きな岩の|重畳《じゅうじょう》した蛙岩のあたりが、彼をそのようにさせたのではない。彼はその霧と霧を運ぶ原因に、なにか、油断ならないエネルギーを受け取ったのであった。  道はしっかりしていた。面白いように足が運び、道の両側には、這松がせまり、|或《ある》いは花畑の群落があった。そのような容易な道を通りながら、槍ヶ岳に近づきつつある彼の右側の高瀬川の渓谷から吹きあげて来る霧は、真夏の太陽のもとにおいてはまたとない冷気の贈りものでもあった。彼は、その雲海からけっして眼を離さなかった。三千メートル級の山には未経験な加藤文太郎であったが、本能的にただならぬ気配を感じつつあった。  燕山荘で教えて貰った喜作新道にかかろうとして、左手にそびえる|大天井岳《おてんしょうだけ》に眼をやり、その眼を右側の雲海にもどそうとしたとき、彼は奇妙なものを雲海の上に見たのである。  それまで静かだった雲海の表面がにわかに動き出したのである。温泉の|湧出源《ゆうしゅつげん》から、ぶつぶつとたぎり立つ湯のように、雲海の一部の雲が頭を持ちあげはじめると、それにならったように、あちこちの雲海の表面が、垂直に立ちあがろうとする運動を始める。雲海の異状とともに加藤はなにか、山全体が、妙に静まりかえって、彼を包囲の体勢に持ちこもうとするように思えてならなかった。  加藤は周囲を|見《み》|廻《まわ》した。燕岳の方の雲の動きも尋常ではなかった。燕岳に向って、突きあげていく雲はそれまでになく、威力的な陰影を持っていた。山の雲全体が動き出したことはたしかだった。その動きに反比例して、あまりに静かなのは、なにゆえであろうか。加藤は、この広大な自然の、大きな動きの中に、ひとりで取り残されていることが不安でならなかった。  這松の中で音がした。音と、あきらかに動物の発する声を聞いた。眼を上げると加藤からそう遠くない這松の中を、|数《すう》|羽《わ》の子をつれた雷鳥がこっちに向っておりて来るところだった。遊んでいるのではなかった。目的地へいそごうとする親鳥の意志に反して、遊び廻っている子鳥を|叱《しか》る親鳥の声が静寂をつき破って聞えた。雷鳥は夏のよそおいをしていた。もし動かないでじっとしていたならば、這松と見分けはつかないほど、這松のなかにとけこんだ羽根の色をしていた。  加藤は雷鳥を見たのははじめてであった。本で読み、一度は見たいと思った雷鳥の家族が、突然、眼の前に現われたことは加藤を喜ばした。加藤は、その雷鳥の親子が逃げようとするのは、加藤の出現をおそれたからだろうと解釈したが、彼より高いところにいた雷鳥が沢に向っておりて来る、つまり、彼が立っている方へ向っておりて来るのを見て彼の考えを訂正した。親鳥は、|嘴《くちばし》と、時折発する声で子鳥に方向を示していた。そして一群は加藤の見ている前を、加藤をまるで問題にしないように、登山道を横切って、沢の方へおりていったのである。雷鳥の家族が姿を消すと、山は急に暗くなった。見上げると、大天井岳のいただきを山雲が越えるところだった。加藤はあやうく声をあげるところだった。高瀬川渓谷にうごめく雲海に気を取られていて、反対側の|梓川《あずさがわ》渓谷から|湧《わ》き上って来る雲にうかつだったことに気がついて、あたりを見廻したが、その時はもう、彼の頭上は雲でおおいかくされていた。  その急速な雲の動きは雷の発生以外には考えられなかった。加藤は、逃げこむべきところを計算した。西岳小屋へ走るか、燕山荘へ引きかえすか、彼の頭の中で描いた地図によれば、彼はその中間にいた。中間だとするならば、未知なるものへの逃避より、既知なるものへの退却の方がより安全のように思われた。もうひとつ彼は、雷鳥親子のように、這松の中を沢の下の方へおりていって、どこか岩陰にでも身をよせて雷雨の通過を待とうという考えもあった。だが加藤は、考えただけで、それを実行に移しはしなかった。 「雷様でも来そうだったら、無理しないで引っ返して来るほうがいいずらよ」  加藤は、燕山荘を出るとき、老人がいってくれた言葉を思い出した。北アルプスも未知であり、そこに発生する雷も未知であった。待っていてやり過すという考えには無理があった。加藤は廻れ右をした。雷にたたかれるか、雷より先にどこかへ逃げこむか、その先を加藤は、さっき通って来た蛙岩に求めていた。蛙岩の岩群のどこかに、きっと身をかくす場所はある。彼は尾根道を小走りに歩いた。  雷鳴はどこかで鳴った。どこかで鳴ったことは確かだが、その方向をきめることはむずかしかった。北で鳴ったようにも、南で鳴ったようにも、東から雷雲がおしよせたようにも、西から移動して来たようにも思われる。要するに、雷鳴を聞いた時、加藤は既に雷の勢力域の中にいたのである。  加藤は、雷が、予告なしに、彼を襲撃して来たことが|解《げ》せなかった。彼の経験にないことだった。夕立雲が遠くの水平線に上るか、遠くの山の上にかかり、その雲の翼が、だんだんとひろがり、太陽をかくし、やがて大粒の雨となって降って来るという、夕立の法則を破って、ほとんど警告なしに、頭上から、圧伏しようとする、日本アルプスの雷のあり方に加藤は驚いた。それはきわめて意地悪いやり方だった。冷酷な、非情な無作法なもてなし方だった。  大粒の雨を予想していたが、それは雨というよりも|霙《みぞれ》のようにつめたかった。加藤はルックザックを開いて、用意して来た、油紙で作った|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》を頭からかぶった。だが、それは、それを着て、数分間だけの用にしか使えなかった。山のくずれるような音とともに、滝のような雨に見舞われ、その通過のあとに|竜《たつ》|巻《まき》のような|轟《ごう》|音《おん》と共におそって来る風雨は、加藤の|身体《か ら だ》からいとも簡単に油紙の雨合羽を奪い取ったのである。雨が上から降って来るという法則を無視して、風とともども、下から吹き上げて来ることにも、加藤は三千メートル級の山のルールとして教えられた。加藤は濡れた。つめたい水が胸を伝わり、|臍《へそ》のあたりまで、しみとおっていくのを感じながら彼は歩いていた。そこには身をかくすものはなかった。かくれようとして、道をそれるよりも、明るいうちに燕山荘までかえりつくことが、今となっては|唯《ただ》一つの道のように思われた。立っていても濡れ、歩いていても濡れるならば歩けるだけ歩くという理屈は、神戸の山で、しばしば経験したことであった。雨にぬれて歩く自信はあったが、みぞれのようにつめたい雨と、風のために急速に冷えていく彼の体温をいかにしてもちこたえていくかは分らなかった。雷雨とともに、夜を迎えたように暗くなった。しばしば彼は|稜線《りょうせん》を這うようにして強風からのがれていた。来るときは、気がつかなかったような稜線も暴風雨の|衝《つい》|立《たて》が立てめぐらされ、そこを通るものは一人のこさず谷底へたたきおとそうとする気構えを見せていた。そうなった場合は、生きる道は、やはり、その稜線の道以外にはないことを加藤はよく知っていた。来た道と、帰る道とは、同じ道でありながら別の道だった。  |鞭《むち》をふるような、雷鳴を聞いたのは、蛙岩をすぐ眼の前にしてからだった。ぴゅうん、ぴゅうんと山が鳴った。空気が鳴り、尾根が鳴り、彼自身も鳴った。雷光と雷鳴はほとんど同時だった。彼は|這《はい》|松《まつ》の中に這いつくばって、天の声を聞き、天の鞭を受けながら、天の火を見た。雷光はアーチに走って山と山をつなごうとしているらしかったが、山は見えなかった。天の鞭の音とともに彼自身のそばを天の火が|駈《か》け通るときに、彼は自らの身体が浮き上るような気がした。音は天の火にくらべて、それほど恐ろしいものとは思わなかったが、天の火がちょっとでも彼の身体に触れたら、彼の命がたちどころに終ることは分っていた。  加藤は死を見詰めるということがこのようなことであろうかと思った。恐怖はあったが、死ぬとは思わなかった。生き得るという自信が、恐怖に打勝って、彼は這松の中に伏せたままで、天の鞭の音を聞き、天の火を見詰めていた。加藤の不敵な顔を雷光が照らした。彼の眼は正しく蛙岩の方向を|睨《にら》んでいた。      10  夜のおとずれるころ、雷雨はおさまった。風はまだいくらか吹いてはいたが、風の存在が気になるほどではなかった。  加藤文太郎は、暗い稜線を|燕山荘《つばくろさんそう》に向って歩いていた。|提《さげ》|電《でん》|灯《とう》を消すと、おそるべき暗黒が彼の周囲を取巻いていた。高いところにいるという感覚も、彼の歩いている稜線の左右に深い谷があるということも、想像するだけで、実感としては、暗黒以外なにものもなかった。三千世界は、彼の提電灯の光の及ぶ以外にはなかった。光の下に這松が見えたり、岩が顔を出したり、草があったりするというふうな平凡な、限られた景色だけがつづいていた。歩いたはずだが、記憶にはないところを歩いていた。生れて初めて歩く道のようだった。道ははっきりしているから提電灯を持っているかぎり心配はなかった。  彼はときどき提電灯を消して|暗《くら》|闇《やみ》の中に立った。じっとしていると、川の流れのような音が遠くから聞えた。それが、高瀬川の|渓《けい》|谷《こく》から伝わって来る音だとは考えられなかったが、風の音だときめつける自信もなかった。雷雨の最中にはあれほど、狂暴な音を発した山々が、いまはささやくような音しか残していないのが、加藤には不思議に思われた。彼は暗闇に立って一晩中この峰の音を聞いていたいと思うほど、山のいただきにおける音の存在が貴重に思われた。  加藤は濡れていた。手足もつめたく火が欲しかったが、それよりも、日本アルプスの稜線を夜ひとりで歩いているという感激が彼を有頂天にさせていた。おそろしいこともこわいことも、ひもじいこともなかった。彼の体内では若い命の火が炎をあげていた。おそらく一晩中歩いていても平気だろうと彼は思っていた。雷雨が上ったとき、彼は、一度は西岳小屋をと考えてはみたが、未知の縦走路を夜歩くことの危険をさけて、燕山荘へ引きかえすことにきめたのである。  彼を取りまいていた暗黒は時間の経過にしたがって薄らいでいくようだった。天と地の境界がうすぼんやりと区別ができるようになってから、間もなく天の一角に星が出た。そこから星空が急速にひろがっていった。  彼は浜坂の海でも、神戸の山でも星を見た。同じ星が、同じ天体の位置をしめて、同じ方向へ動きつつあったのだが、彼がこの稜線に仰ぎ見た星はそれらとは違ったものだった。天の雲がすべてぬぐい去られてそこに現出した星は、彼のいままで見ていた星とは違っていた。彼が少年のころから見ていた星、浜坂で、神戸で見た星は、空にあった。空という平面に投影された星であった。が、いま彼の見ている星は平面図上の星ではなかった。星は彼を|囲繞《いにょう》していた。星の中に彼はいた。空間にばらばらと存在する星の中に、その一つの星のように彼は存在しているのである。星は平面図に投影された星ではなく、立体無限空間に存在する星であった。その一つ一つが手のとどきそうなくらい身近に輝いていた。  高いところに立っているという自覚、三千メートルの高所に立ったという自己暗示が、空の星を、平面感覚から立体感覚に昇格させたのではなかった。清澄した山のいただきが、当然そうあるべき星の世界を彼に見せたに過ぎなかった。  加藤が天上にいただく星の数は、信じがたいほど多量に見えた。暗黒の空に星が点在するのではなく、星の中に夜が点在するかのように、おびただしい星が彼を取りまいていた。加藤は、その星空の下に、胸をふくらまして立っていた。それを美しいと表現はできなかった。|荘《そう》|厳《ごん》というふうな、古めかしいことばでも表わせなかった。それは人間の表現感覚を越えたものだった。背筋の寒くなるような美しさだった。ひとりで、|噛《か》みしめて、他人には告げることのできない景観だった。  彼は、星の下を歩きながら、こどもの|頃《ころ》、絵本で読んだ、星の国の王子のことを思いだした。星の国の王子の馬は、星によって飾られていた。王子のかぶっている帽子も、|靴《くつ》も、腰に帯びている剣もまた、星によってかざられていた。王子の馬のひづめが、ときどき小さい星をけとばした。それが流星となって流れ去った。加藤文太郎は、その一節をはっきり思い出していた。彼は今、星の国の王子だと思った。あのすべての星はおれのものだと叫んでも、うそではなかった。  加藤は、おそらく、こんな夜、アルプスの稜線を歩いているものは彼ひとりだと思った。そしてこの夜のすばらしさに触れることのできるのも、彼ひとりだと思った。ひとりで、できるかぎり|貪《どん》|婪《らん》にそのすばらしいものを|享《う》けようと思っていた。しかし彼は美しさや偉大さの中に自分を見失うようなことはなかった。涙ぐんだり、感傷的な歌など歌ってはいなかった。彼は濡れた小さい|身体《か ら だ》に大きなルックザックを背負って、おそらく、このようにすばらしいものにめぐり会うことができた以上、|生涯《しょうがい》、この世界からのがれ出ることはできないだろうと考えていた。  燕山荘の火を見たとき加藤文太郎はほっとした。やれやれと思った。そして、次の瞬間、燕山荘に泊っているだろう、あの五人のパーティーのことを思い浮べた。 「たいへんだっつら、さあ、濡れたものを脱いで、火にお当りな」  燕山荘の赤沼千尋は炉端から立上って、加藤文太郎を迎えた。 「雷様にはどのへんで、お会いなされたかね。きょうの雷様はひどかった、こんなのは一夏に一度あるか二度あるかだで……」  赤沼千尋は加藤の顔を見ながらいった。加藤は返事のかわりに、赤沼に向って、ぴょこんと頭をさげて、小さな声で泊めてくれといった。そして彼は、赤沼が炉のそばで着がえをするようにすすめても、炉の近くにはいかず、土間の|隅《すみ》で、ルックザックの中から、油紙に包んで来た下着を取り出して着がえてから、炉をかこんで、加藤を凝視している五人のパーティーの面々に|挨《あい》|拶《さつ》した。 「あなたはどこの山岳会ですか」  パーティーのひとりが聞いた。 「どこの山岳会にも入ってはいません」 「すると、全くの単独行主義ってわけですね、遠くから、来たんですか」  神戸からですと加藤が答えると、その男は、 「ああ関西か」  といった。関西かといった中には、あきらかに意識的|挑戦《ちょうせん》が感じられた。 「山をやったことがあるんですか」  別の男が、なじるような顔でいった。 「神戸付近の山ならたいてい歩きました」  すると炉をかこんでいる若い人たちはいっせいに笑い出した。 「神戸付近の山なんか山ではありませんよ。まあ丘のつづきみたようなものでしょうな」  それでまた笑いが起きた。 「ろくろく山を知らないのに、無茶をやっちゃあ困るな。だいたい、日本アルプスというところは、明治時代ならともかく、これからは、|地《じ》|下《か》|足《た》|袋《び》なんかで来るところではない」  リーダーがとがめるような|眼《め》を加藤に向けた。|侮《ぶ》|蔑《べつ》を強調した顔だった。 「それにきみは山の気象を知らない。雷雨が来ることが分っていてでかけて雷雨に会った。とんで火に入る夏の虫だよきみは」  加藤は夏の虫といわれて眼を上げてその男の顔を見た。どこか影村技師に似ているなと思った。 「北森さんは口が悪いねあいかわらず。なあに、気にするこたあねえさ、きょうの雷様だって、ほんとうに来ると分っていたら、おらが止めたさ。来そうだと思ってはいたが、あんなに早く来るとは思わなかった。さあ、めしでも食ってあったまって寝るがいいずらよ」  赤沼は加藤文太郎になにかと好意を示そうとしていた。  加藤は黙っていた。なにをいわれても、聞いているような、いないような、不可解な笑いを浮べながら、眼は美しく燃える炉の火を見つめていた。五人のパーティーを無視しきったようなふてぶてしさだった。すき間から吹きこんで来る風が、炉の上で煙のうずを作った。加藤は煙にむせて、二つ三つせきをしてからいった。 「おじさん、明日の天気はどうですか」  煙にむせた瞬間、加藤は翌日の行程を考えていた。 「天気はいいね、雷様のあった翌日は、とてもいい天気になる。だがなあ、午後になるとまた夕立になるかも知れねえ。この山の夕立って|奴《やつ》は、続くくせがあってな」  赤沼は炉にダケカンバの|薪《まき》をくべた。白い皮がめらめらとまくれかえりながら|橙色《だいだいいろ》の|光《こう》|芒《ぼう》を放って燃えた。 「おじさん、今夜のうちに弁当作っておいてくれませんか、あすの朝と昼の二食分……」  赤沼は加藤を見た。夕立は続く傾向があるとひとこと聞いただけで、早立ちを決意した加藤を改めて見直す眼であった。加藤はていねいに油紙に包んだ米袋をルックザックから出して赤沼の前に置いた。 「早立ちかね、それはいいずらよ」  赤沼はいった。  朝は空から始まっていた。星が消えて、淡い白さが空一面にひろがっていくと、空の下にあるものは、すべて、その|外《がい》|貌《ぼう》を黒くうつし出していた。だが表情はいまだにかくされていたし、もちろん声も聞えなかった。山々はまだ眠っていた。夜明けのひとときの深い眠りにおちこんで、眼覚めることを知らないようであった。  加藤文太郎は静かに起き上った。すぐそばで寝ている五人のパーティーの顔にはまだ朝の光はとどかず、|彼《かれ》|等《ら》がどんな表情をしているかは分らなかった。加藤は土間の方へいざり出ていくと、地下足袋をはいた。ルックザックをかついで、小屋を出ようとすると、あとから、赤沼千尋が起き出て来た。 「きょうはどこまでいきなさる予定かね」  赤沼はまぶしそうな眼を空に投げながらいった。 「大天井岳、西岳小屋、|槍《やり》ヶ|岳《たけ》、|殺生小屋《せっしょうごや》……」 「そうかね、あなたならやれるずら。じゃあ注意してやるがいい、雷様が出そうだったら槍ヶ岳へ登るのはやめた方がいいな」  加藤は赤沼千尋にていねいに礼をいって燕山荘をあとにした。赤沼が加藤のあとをしばらく見送ってから小屋へ入ろうとすると、中から出て来た北森と顔を合わせた。 「あいつ、もう出かけたんだね」  北森は加藤が黙ってでかけたのが気にくわないようだった。 「加藤さんはなかなかしっかりしている」  赤沼は加藤の去った方向へ眼をむけていった。 「しっかりしているんですって、あいつのどこが?」  北森はつっかかるようないい方をした。 「どこがって、加藤さんの歩き方は、やたらへいたらの登山者の歩き方じゃあねえ、長えこと山を歩いた人の歩き方だ、あの若さでね」  赤沼はひどく感心したように首をひねった。 「なんです、やたらへいたらってのは」  北森はやたらへいたらという信州の方言が分らなかった。寝不足なのか、いくらかふくらんだ顔を赤沼に|真《まっ》|直《す》ぐ向けた。 「やたらへいたらってのは、やたらにそこらあたりにはいねえってことだ。あの加藤さん、という神戸の御人は、いまに、えれえ登山家になる人だぜ」 「あの地下足袋の加藤がか」  北森は笑った。明らかに赤沼千尋の見当違いを笑ったような顔だったが、笑いの途中で急にきつい顔にもどって反問した。 「将来えれえ登山家になるという証拠は」  北森はもう笑っていなかった。赤沼の予言の基礎となるものがひとつでも間違っていたらこっぴどくやっつけようとする顔だった。 「証拠なんてむずかしいことをいわれるとこまるけど、加藤さんの歩き方を見ていると喜作そっくりだ。喜作の若いころはかもしかよりも速く歩くと評判を取ったものだが、そのころの喜作の歩き方によく似ている人だ。どこって口に出していえねえけれど、すいっ、すいっと、こう、体重を前に乗せかけていくところが、そっくりなんだ。それにあの加藤さんてひとは、用意がいいんだ。そこも喜作に似ているな。ルックザックには一週間ぐらいの食糧が、油紙にこまかく分けて包んで入れてあったり、衣類の準備も完全だ。それになあ北森さん、ゆうべおれがあすも雷様があるかも知れねえといったら、この早立ちだ。なにもかも、あの人のやることは山の道理にかなっている」  北森はだまって聞いていた。赤沼千尋が加藤を喜作とそっくりだといったことが、北森の胸にこたえたようだった。喜作新道を開いた、名猟師喜作の天才的な山歩きは多くの伝説となって残っていた。その喜作と同じ歩き方をする加藤文太郎という男を、いささか甘く見すぎていたのではないだろうか。中房温泉で見かけたときも、合戦小屋の下で追いぬかれたときも、おかしな奴としか思われなかったけど、大天井岳の下までいって雷雨に会って引きかえして来ても、なにもなかったように、しゃあしゃあとした顔で着がえをして、飯を食うとさっさと寝てしまうあたりの、神経の太さは、普通ではない。北森はたいへん大きな失敗でもしたように小屋の中へ引きかえすと、 「おい、起きろ、もう夜が明けたぞ。きさまたちは山へなにしに来たのだ、朝寝坊をしに来たのか、さあ起きろ」  北森の突然のかわりようを、赤沼千尋は横目で|眺《なが》めながら、炉に薪をくべた。煙が小屋の|床《ゆか》を|這《は》った。間もなく、小屋の中は煙で見えなくなった。  加藤文太郎は槍ヶ岳を見ながら歩いていた。とがった槍の穂先に、陽光がぴたりと停止すると、そこから、朝は、順序正しく下界へ向っておりていった。槍は黒くは光らなかった。黒い地色の上に、薄い絹が一枚かぶせられていて、そのなめらかな、薄絹が朝日を受けて輝き出したように見えた。薄絹は、薄もも色に光った。薄紅色といったほうが、より事実に近かったかも知れない。だが、その薄絹はあくまで薄く、黒い穂全体を薄紅色に輝かせるほどの作用をしなかった。黒い穂の上に、わずかに、薄紅色を感じさせるていどのものであった。日の出の水平光が、槍の最頂点において、戸惑い遊ぶ、分光現象の一種のようにも思われた。加藤は槍のいただきに、ひどく女性的な美しさを感じた。本で読んでいたモルゲンロートとはいささか違っているように思われた。山全体が紅色に光り輝くというふうには見えなかった。薄絹は紅色からすぐ紫色にかわった。紫色にかわってからは、前よりもはっきりと、|山《やま》|肌《はだ》と、薄絹との|間《かん》|隙《げき》を感じた。薄絹は、山とは別な存在だった。山にすっぽりとかぶさりかかっている、ごく|稀《き》|薄《はく》な、|靄《もや》の膜が朝日によって光りかがやくように思われた。  槍ヶ岳からは幾条もの白い線が谷底へ向って流れおちていた。その一筋一筋の白い線に日が当ると、そこは、ややはっきりと紅色に燃えた。その白い線が|雪《せっ》|渓《けい》か、ガレ場かは、断定はできなかったけれど、Yの字型に太く、山肌に切れこんだあたりに、はっきりと雪渓と分るものがあった。  彼は|懐《なつ》かしいものを見るようにそのYの字型の白い彫刻に眼を止めてから、再び眼を槍の頂上にもどした。槍の右肩に、寄生したように取りついている小槍が見えた。そこから、偉大なる尾根が北に向って延々と続いていた。その黒くたくましい尾根の名が、|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》であることは間違いなかった。槍の偉容にふさわしい、尾根の連続だった。槍の穂に|比《ひ》|肩《けん》してもなんらおとることのない|岩稜《がんりょう》の一つ一つが、朝日にくっきりと姿を見せはじめていた。  北鎌尾根は雄大に続いていって、その末端には既に岩稜は見えず、樹林につつまれたこんもりとした山となって終っていた。  北鎌尾根と、加藤が立っている尾根との間にある深い谷の底は見えなかった。谷と尾根との間には原始そのままの静寂が、まだ、夜のままの姿で、朝の来るのを待っていた。  きのう、雷鳥の親子がいたあたりまで来ると夜はすっかり明けはなれていた。雷鳥はどこにも見えず、空を|鷹《たか》が|悠《ゆう》|々《ゆう》と|飛翔《ひしょう》していた。大天井岳のいただきが、ほぼ鷹の飛んでいる位置と並んでいた。  加藤は喜作新道を東鎌尾根の方へおりていかずに、燕山荘の主人に教えられた、|這《はい》|松《まつ》の中の道を大天井岳に向っていった。這松がなくなり、岩ばかりの急傾斜になったころ、加藤は朝日を顔にまともに受けた。彼は太陽に向って両手をあげた。声は出さずに、無言の万歳と朝の|挨《あい》|拶《さつ》をしてから、頂上めがけてさっさと登っていった。  一坪もないような狭い頂上にケルンが一つ積んであった。特に感激は|湧《わ》かなかった。彼はそこから、燕岳の方向をのぞんで、彼が朝のうちに踏破した距離が思いのほか長かったことに満足した。そして彼は、頂上の岩の上に腰をかけて、静かに、槍ヶ岳と対面した。  槍の偉大さを支えるものは、そこから見て、北と南に張り出している尾根であった。その中でも、北鎌尾根こそ、槍のいただきにせまるもっとも、厳粛な尾根に見えた。北鎌尾根こそ、槍の存在を価値づけるものであり、北鎌尾根を無視したら、槍はないも同然に考えられた。  加藤文太郎は、槍ヶ岳から、北鎌尾根へ、そして北鎌尾根から槍ヶ岳へと、なんどか眼を動かした。 「どちらからでもいいのだ」  と加藤はいった。  北鎌尾根をたどって槍の頂上へいってもいいし、槍の頂上から、北鎌尾根へ下っていってもいいのだ。  要するに、槍と北鎌尾根と離しては考えられないのだ。 「いつか、おれは北鎌尾根をやるぞ」  加藤は山に向っていった。  その誓いは絶対のもののように思われた。彼はその美しく偉大なものとの対面に、過ぎていく時間を忘れ果てていた。  西岳小屋がひょっこり眼の前に現われたとき加藤は、この|稜線《りょうせん》歩きが、その|難《なん》|易《い》さにおいては神戸アルプスとさほど変りがないなと思った。そこまでが楽すぎたから、加藤には、それから先のことが心配だった。西岳から一度おりて、急傾斜の東鎌尾根を槍ヶ岳へ向っての道のけわしさは、遠望しただけでも相当な困難が予想された。  道端にひとりの男がしゃがんでなにかしていた。手に光るものを持ち、肩に大きなかばんをさげていた。よけて通れば、通れたけれど、加藤は、その男の奇妙な動作が気になったから立止った。  男はピンセットで、道端に生えている、草を引抜こうとしていた。手で引き抜けばいいのに、ピンセットを用いているところが、加藤には合点がいかなかった。草の名は知らなかったが、ひとところに、同じ種類のものが群生していた。一見|苔《こけ》のように見える草だったが、苔でもなさそうだった。男は、その小さい植物の群れの中から、一すじのなよなよとした草を抜きとると、まるで、ダイヤモンドでも拾ったような顔をして、肩にかけていたカバンをあけて入れた。  男はその仕事が終ると黙って立上って、加藤の方を見て、頭をさげた。加藤も挨拶をかえした。ふたりとも無言だった。 「槍ヶ岳へ行くにはこの道でいいのでしょうか」  加藤は分りきったことを聞いた。朝からずっと口をきかなかったから、話してみたかったのではない。道端にしゃがんで、妙なことをした男になんとはなしに興味を持ったから話しかけてみたのである。 「槍へいくのですか、それならこの道を槍に向ってどこまでも真直ぐにいけばいいんですよ」  男は黒い|詰《つめ》|襟《えり》の|上《うわ》|衣《ぎ》とそれとついになっている、黒のズボンを|穿《は》いていた。ゲートルをつけ|登《と》|山《ざん》|靴《ぐつ》をはいているのがいかめしく見えた。登山靴はかなり履き古されたものだった。 「植物の採集ですか」  加藤は率直に聞いた。 「そうです。この小屋に三日いましたから、そろそろ殺生小屋の方へ移ろうかと思っているところです」  男はそういった。 「さっきピンセットではさんで取ったのは……」  加藤は、男がつまみ取った植物の名を聞いたが、男は加藤の質問をピンセットを使った動作にあると取ったようだった。 「ほかの植物をいためたりしないように、なるべく群生しているのを見つけて、ほどよいところを間引きするのには、ピンセットがいいんです。ああいうふうにすれば他の植物に害を与えないばかりか、間引きすることによって、あの小群落の植物にとってはかえっていい結果にもなるんですよ」  加藤は話を聞きながらその男に好感を持った。 「この山ははじめてですか」  と男はふりかえって加藤にきいてから、はじめてならぼくが案内してあげようかなと、ひとりごとのようにいった。加藤はお願いしますとも、いいえひとりで結構ですともいわなかった。男と一緒に西岳小屋に入って腰をおろすと、その小屋も燕山荘と同じように、ひどく煙っぽくて暗かった。客は植物採集のその男しかいなかった。  加藤がその小屋で休憩している間に、男は出発の身じたくをととのえていた。ルックザックの上に植物採集用の胴乱をつけた格好はあまりいいものではなかった。 「ふたりで歩くとなるとお互いに名を知って置いた方がよさそうですね」  男はそうことわって置いて、矢部多門、親の|臑《すね》かじりの東京の大学生ですと奇妙な自己紹介をした。 「ぼくは加藤文太郎、神戸の神港造船所に勤めています」  造船所というと軍艦をこしらえるんですかと矢部はいった。加藤が自分のやっていることはエンジンの設計で、そのエンジンは主として小型商船に使われるものであると答えると、矢部は、商船でもいざ戦争となると軍艦に改造できるんだそうですねといった。  歩き出すと矢部は口をきかなかった。この道はもう何度か歩いたことのあるように、足の運び方がうまかった。急坂をおりて|鞍《あん》|部《ぶ》に出ると、そのせまいところを、音を立てて風が吹き通っていった。風の音が水の音に聞えた。矢部はそこに立止って左が槍沢、右側が天上沢であることを加藤に教えてから、槍ヶ岳までの|険《けん》|阻《そ》な登りについて、ただ、ゆっくり歩けばいいだけだと説明した。加藤は矢部のそのいい方がひどく気に入った。そして、矢部は、本格的登山について、かなりの知識を持っているに違いないと思った。  先頭に立った矢部はときどきふりかえった。加藤はその眼にうなずいた。矢部がふりかえる時には、そこにはなんらかの危険があった。道がくずれかかっていたり、浮き石があったり、時に、前方にすばらしい景色があったりした。休むことはなかった。ゆっくりだが、休むことなしに歩を運んでいく矢部のペースに加藤はいつの間にか巻きこまれていた。高度はぐんぐんとせり上っていった。  雲はたえず、湧き立っていた。燕岳の方は雲にさえぎられて見えなかった。いただきにも、沢にも、谷にも雲はあったがその雲と雲の間には連絡はなかった。勝手にできて勝手に消えうせる雲のようだったが、その雲がきのうのように、急にひとかたまりになって雷雨になりはしないかと、それだけが加藤の心配だった。  樹木から遠ざかり、這松地帯になり、そしてごつごつした岩稜に立ったとき、すぐ眼の前に加藤は|槍《やり》の穂を見た。  そこで見る槍の穂は槍の穂には見えず、天にそびえたつ巨大な置きものに見えた。  なぜ、そんなふうに、巨大な石のかたまりが、そこにあるのだろうかという、自然の配剤に対する感謝をこめた疑念が青空に向って突き出ている槍ヶ岳を見たときに起った。そして、その槍こそ、日本の山を象徴する中心であるような気がした。槍に向ってではなく青い空に向って歩き出して間もなく、加藤は、槍ヶ岳の肩のあたりで、小屋が作られつつあるのを見て取った。足下に見える|殺生小屋《せっしょうごや》とはかなりの距離があったが、よく澄んでいる空気のなかにいると、そのどちらへも声がとどくような気がしてならなかった。静かだなと彼は思った。まるで山は、彼等ふたりのために静かであるような気がした。 「さっぱり人は見えませんね」  と加藤は、矢部に話しかけた。 「七月から八月にかけてはかなりの人が登って来ますが、盆を過ぎると急に人が減って、八月も終りに近づくと山は全く静かになる。いわば今が登山のチャンスですよ」  矢部がいった。 「こんどはあなたが先に立って歩いてください。あの小屋をこしらえているところへ寄って、荷物をおろしてから、槍の頂上へ登りましょう。いまのところ雷様はなさそうだ」  矢部は道を加藤にゆずってから空を見上げていった。  小屋は完成に近づいていた。小屋の前で手をかざして加藤たちが登っていくのを眺めている人がいた。その男は、間もなく矢部多門に気がついたらしく、手をふりながら近寄って来て矢部と言葉を交わした。 「穂苅さんとうとうできあがりましたね」  矢部がいった。 「肩の小屋って名前をつけようと思っているんですがどうでしょう」 「いい名前じゃあないですか。ここへ小屋ができると、冬季槍ヶ岳登山だって、そうむずかしいことではなくなる」  矢部はそういうと、そこへ荷物をおろして背伸びをするように、槍ヶ岳の頂上を見上げた。加藤もそれにならった。そこからほとんど垂直にも見えるほどに突立っている槍ヶ岳の頂上を見上げると、首の根っ子が痛くなるような気がした。  加藤は、ここまで来たことが|嬉《うれ》しくてしようがなかった。もうすぐそこに、日本アルプスを象徴する槍のいただきはあるのだ。矢部は三十分もあれば登れるといったが、三十分で登れそうにも見えないほど、ごつごつととがった恐るべき岩峰だった。  加藤は、話をしているふたりをそこへ残して、槍の近くへ寄っていった。 「あのひとは、あなたのお知合ですか」  穂苅三寿雄は加藤のうしろ姿を見送りながら、矢部多門に|訊《たず》ねた。 「神港造船所の加藤文太郎という人です。きょうはじめて山で会ったんです」  そうですかと穂苅はひとりでうなずいていたが、 「あのひとはなんとなく嘉門次に似ていますね」 「歩き方がですか?」 「いや、登ってくるところを上から見ていると胸の張り方が嘉門次そっくりなんです。上体をこうぴんと張って、といってもけっして張りすぎているわけではない。ごく自然にぴんと張って、その張りを崩さずに登って来るところは嘉門次そっくりだ。ゆうべは西岳小屋泊りですか」 「ぼくは西岳小屋泊りですが、加藤さんは、今朝燕山荘を出て来たんですよ」  穂苅三寿雄は懐中時計を出して見た。十二時になるところだった。穂苅は時計の針と、加藤のうしろ姿を見くらべていたが、大きくひとつうなずいていった。 「あの若さで、あのように山についた歩き方をするひとはめったに見られない。あの人はもうかなり山を歩いた人ですね。山についた歩き方をするのはいいが、あまり速く歩くということは考えもんだな。足の速いことが、今後のあの人のさしさわりにならなければいいが……」  加藤はふたりの会話を聞いてはいなかった。燕山荘で彼の歩き方が名猟師喜作に似ているといわれたことも、ここで不世出の名ガイド嘉門次に比較されたことも彼は露ほども知らなかった。加藤は、そのへんをやたらに歩き|廻《まわ》っていた。岩にも触れて見た。神戸の岩とは性格がちがっていた。槍ヶ岳の岩は、彼が想像していた岩ではなく地球の骨であった。地球の骨の突出部が歳月と風雪を越えて彼の前にさらけだされているさまは、むしろ|悲《ひ》|愴《そう》でさえあった。